平安後期の武将。園城寺(おんじょうじ)の新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服したところから新羅三郎と称した。父は頼義(よりよし)、母は上野介(こうずけのすけ)平直方(なおかた)の女(むすめ)で義家(よしいえ)の同母弟。弓馬の術の達人といわれた。左兵衛尉(さひょうえのじょう)に在任して京都にあったとき、後三年の役で兄の義家が陸奥(むつ)国において藤原清衡(きよひら)を助けて清原武衡(たけひら)、家衡(いえひら)らを相手に苦戦していることを知り、救援に赴くことを朝廷に申し出たが許されず、ために1087年(寛治1)官を辞して兄のもとへ馳(は)せ参じた。そして義家とともに武衡、家衡を金沢柵(かねさわのさく)に打ち破り京都に帰った。その後、刑部丞(ぎょうぶのじょう)、左衛門尉(さえもんのじょう)、常陸介(ひたちのすけ)、甲斐守(かいのかみ)などを歴任し、この間、東国の受領(ずりょう)経験を契機としてこの地に勢力を伸ばし常陸国(茨城県)の佐竹郷に本拠を構えた。また義光は笙(しょう)をよくしたが、豊原時忠(とよはらのときただ)を師とし、交丸(はしりまろ)とよばれる名器を授けられた。ところが陸奥国へ下向のとき、これを携行したが逢坂関(おうさかのせき)に彼を見送った師の時忠が別れを惜しんで帰らないので、義光は戦陣で名器を失うことを案じて、その名器を時忠に返したという。
[朧谷 寿]
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(元木泰雄)
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…近江国滋賀郡錦織郷(今の大津市内,園城寺の北)が本拠。清和源氏,源義光の子孫。前九年の役の後,源頼義は錦織郷に館を構えて住んだと伝え,その子義光も園城寺やその近傍と関係が深く,子孫は山本,柏木,錦織,箕浦(みのうら)の諸氏となった。…
…近江国坂田郡箕浦(今の滋賀県坂田郡近江町)を本拠とする。清和源氏,源義光の子孫で,山本義経の子義明が箕浦冠者と称している。義光は園城寺をはじめ近江と関係が深く,その子孫は,常陸に土着して佐竹氏となったもののほかは,多くは近江,とくに湖東地方で栄え,山本(東浅井郡湖北町),柏木(甲賀郡水口町),箕浦,錦織(大津市)の諸氏となった。…
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