日本歴史地名大系 「信友村」の解説 信友村のぶともむら 岐阜県:美濃加茂市信友村[現在地名]美濃加茂市下米田町信友(しもよねだちようのぶとも)山本(やまもと)村の南にある。下米田低地の東端にあたり、和知(わち)村(現加茂郡八百津町)境の山を東(ひがし)山という。慶長郷帳では幕府領で村高二七五石余。正保郷帳によれば尾張藩領で田方二四二石余・畑方三〇石余・山年貢二石余(松山草山)。明暦覚書によれば、元和元年(一六一五)尾張藩領へ編入され、藩内概高は三六九石余。慶安四年(一六五一)の男女一二七、馬一一。「濃州徇行記」によれば、竹腰小伝治の給地で家数二九・男女一三四、馬三。田は則光(のりみつ)・為岡(ためおか)・栃井(とちい)・山本(やまもと)とひと続きの平地で、実りはよいが畑や山が少くて助成が薄い。 信友村のぶともむら 千葉県:長生郡長生村信友村[現在地名]長生村信友金田(かねだ)村の北東に位置する。永禄四年(一五六一)本納(ほんのう)城(現茂原市)落城後、矢部・植草両氏らが開発したという。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八二石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では金田組に属し、旗本高林領九六石余・坪内領八六石余で、この相給は幕末まで同様。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by