日本歴史地名大系 「美濃加茂市」の解説 美濃加茂市みのかもし 面積:七五・八一平方キロ県の南部中央に位置し、加茂郡を東と西の二地区に分割している。南は木曾川を隔てて可児(かに)市に面し、西方は関市・各務原(かかみがはら)市を経て岐阜市へ通じる。北東から南西に傾斜している美濃高原の南西端にあたり、地形は北部山地、中部の蜂屋(はちや)丘陵地、南部の美濃加茂盆地(木曾川・飛騨川が形成した河岸段丘)に三分される。北部山地を開析する川浦(かわうら)川、蜂屋丘陵を開析する蜂屋川は西流して長良川支流津保(つぼ)川に注ぎ、南部低地を開析する加茂川は木曾川に注ぐ。中山道・飛騨街道(益田街道)と木曾川・飛騨川とにより、濃尾平野と飛騨・信濃とを結ぶ交通の要地。〔原始〕加茂郡富加(とみか)町にまたがる北野(きたの)遺跡は県下の代表的な先土器時代遺跡で、刃器文化後半(茂呂タイプ)から縄文草創期にかけて長い期間に営まれた。遺跡は南部の下米田(しもよねだ)・太田(おおた)・加茂野(かもの)地区に多く、縄文時代は中期に、弥生時代は後期に集中している。古墳時代で現存するものは五世紀以降の円墳のみである。六、七世紀には市内全域に群集墳が築かれた。牧野小山(まきのこやま)遺跡は縄文早期より古墳時代に至る、今(いま)遺跡は弥生時代より奈良時代に至る複合遺跡で、各時代の住居跡が多数発見された。〔古代〕条里遺構が蜂屋川流域など数ヵ所に分布しており、今遺跡の住居跡、矢田(やだ)廃寺・元薬師(もとやくし)寺跡の寺院跡がある。「和名抄」の郷名のうち賀茂郡美和(みわ)・生部(みぶべ)・井門(いと)・小山(おやま)・曰理(わたり)・志麻(しま)・米田(よねだ)の諸郷と武藝(むげ)郡揖可(いぶか)郷が市域に比定される。「延喜式」の県主(あがたぬし)神社が郡名の由来である鴨県主氏集団の本拠地で、郡家所在地と考えられ、太田町の現県主神社に比定されるが確証はない。ほかに式内社では中山(なかやま)神社が下米田町山本(やまもと)の諏訪神社に比定される。平安末期に摂関家の所領として山上(やまのうえ)庄・蜂屋庄・揖深(いぶか)庄などの名が現れる。〔中世〕長保三年(一〇〇一)以降、源頼光一族が相次いで美濃守となり、美濃源氏の基を開いた。初め山県(やまがた)郡に拠る頼綱系が有力であったが、承久の乱以後国房系の土岐氏が台頭した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「美濃加茂市」の意味・わかりやすい解説 美濃加茂〔市〕みのかも 岐阜県南部にある市。木曾川と飛騨川の合流点に位置する。 1954年太田,古井の2町,山之上,蜂屋,加茂野,伊深,下米田の5村および和知,三和の2村の一部が合体して市制。中心市街地は美濃太田で,古くから木曾川の河港,江戸時代は中山道の宿場町として発展。明治以降は高山本線,越美南線 (現長良川鉄道) ,太多線の分岐点となり,商業交通集落として繁栄し,中濃地方の中心となった。また,美濃加茂工業団地が造成され,中部経済圏の重要産業拠点の一つ。河岸に日本ライン川下りの乗船場がある。北方の丘陵地ではナシ,カキの栽培が行われる。市域の一部は飛騨木曾川国定公園に属する。国道 21号線,41号線などが通じる。面積 74.81km2。人口 5万6689(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by