金田村(読み)かなたむら

日本歴史地名大系 「金田村」の解説

金田村
かなたむら

[現在地名]堺市金岡かなおか町・新金岡しんかなおか町四―五丁など

長曾根ながそね村の南東に位置し、村のほぼ中央部を東西に竹内たけのうち街道が通る。河内国八上やかみ郡に属する。貞永元年(一二三二)七月一四日付の得勝とくしよう寺の鐘銘(日本考古図録)に「金太郷得勝寺」とみえる。中世は金太かなた郷・金太庄の地。金岡村と称したこともあるという(大阪府全志)正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二千九〇六石余、元文二年(一七三七)の河内国高帳で三千二三六石余とあり、以後大幅な変化はみられない。初め幕府領であったが元禄七年(一六九四)村高のうち過半(西分という)が甲斐谷村藩秋元喬知領となり、宝永元年(一七〇四)残り高(東分という)が谷村藩より転封になった武蔵川越藩秋元喬知領となり、以後当村は秋元氏の転封に伴い出羽山形藩領・上野館林藩領となり幕末に至る。


金田村
こんだむら

[現在地名]桜村金田

北は土器屋かわらけや村。古代は「和名抄」記載の菅田すがた郷に属したといわれ、河内かつち郡衙跡と推定される。長者山ちようじややま長者屋敷ちようじややしきとよばれる金田台こんだだいからは多くの遺物が出土している。また金田台の東側下の水田に条里制の遺構が残されている。中世はおか村とともに田中たなか強清水こわしみず郷に属したと比定されており、村内の館山たてやまには強清水城ともよばれる金田城があった。強清水郷は嘉慶二年(一三八八)の沙弥禅助上杉朝宗寄進状(日輪寺文書)に、

<資料は省略されています>

とある。元禄一二年(一六九九)土浦藩領となり(土浦市史)元禄郷帳の村高は六八八石余。「県方集覧」(酒井泉氏蔵)に「家数六拾八軒、人数三百七拾七人、外社家僧医師夷家内三拾人、馬弐拾七疋」とある。


金田村
かねたむら

[現在地名]一宮町金田

かね川扇状地の扇端に位置し、東は北都塚きたみやこづか村・本都塚村、南は東原ひがしばら村。慶長古高帳に金田とみえ高五一二石余、幕府領。ほかに金山かなやま領一石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本石原・小幡・大森の三家がみえる。貞享―元禄期(一六八四―一七〇四)の川東領分並給人付帳(渡辺一若家文書)でも同じ三家領で、元禄郷帳では幕府領・小幡領・大森領と金山領。小幡・大森の両氏は寛永一〇年(一六三三)に宛行われたと考えられる(「寛政重修諸家譜」など)。宝永二年(一七〇五)甲府藩領となり、享保九年(一七二四)幕府領石和代官支配。延享三年(一七四六)から田安家領(田安領知村高帳・甲州代官付)


金田村
かなだむら

[現在地名]都城市金田町・吉尾町よしおちよう都北町とほくちよう太郎坊町たろぼうちよう

川東かわひがし村の北西、庄内しようない川が大淀川に合流する地点の東岸一帯にある。北東流する大淀川の対岸は野々美谷ののみたに村。永享一〇年(一四三八)一〇月二〇日の金田むねちか借券(樺山文書)には、取主として「北郷之内金田」の「むねちかのゆうくわう」がみえ、元銭三貫六〇〇文の料足を一月に一〇〇文につき四文の利子を支払うことで借用している。

江戸時代には五口六外城の野々美谷郷に属した。慶長二〇年(一六一五)知行目録(都城島津家文書)に村名がみえ、高二五九石余。諸役御免の加増分三千石のうちに金田村之内二四七石余、北郷宮千代分三千石のうちに金田村之内四九四石余がみえる。元和六年(一六二〇)の知行目録(同文書)では金田村之内高二一四石余のみ記され、明暦元年(一六五五)の知行目録(同文書)では下金田村高一七一石余(うち一三石余が承応三年竿入新仕明并畠田ニ成増高籠分)、上金田村高五六五石余(うち五石余が同分)が記される。


金田村
かなだむら

[現在地名]金田町金田

現金田町の東部に位置し、北流する彦山川中元寺ちゆうがんじ川が合流する地点の三角洲に広がる。住居は大峯おおみね丘陵の北麓に点在する。中世の金田庄の遺称地。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高一千四一一石余、家数一五九・人数四三五(うち惣庄屋一・百姓二四・名子二八・鍛冶一)、牛四九・馬三五。郷村高帳では高一千六九七石余、うち新田高一九一石余。旧高旧領取調帳では高一千六〇一石余。嘉永五年(一八五二)には竈数一七〇(うち寺院二・本百姓一〇八)・人数七九〇(うち酒屋一・紺屋一・鍛冶一・大工三・商人一四・郷筒四・奉公人一六)であった(「金田手永人別改寄帳」六角家文書など)


金田村
かねだむら

[現在地名]厚木市金田

東を相模川、西を中津なかつ川が流れ、村域南端で合流。南は厚木村、北は下依知しもえち村に接する。八王子道が村の西方を南北に通る。集落の南方に水田が開け、北方は中津原なかつはら台地へと続く緩斜面である。中世では依知郷に属し、鎌倉幕府御家人であった本間氏屋敷跡が日蓮宗妙純みようじゆん寺境内一帯にある。永正一六年(一五一九)四月二八日の宗瑞(伊勢長氏)箱根領注文(県史三)には「七十くわん文 かね田 しんミやうゐんニ被下」、小田原衆所領役帳には幻庵「六拾六貫九百六拾四文 中郡金田」とある。

近世は、天正一九年(一五九一)頃に旗本領の二給となり、元禄一四年(一七〇一)に幕府・旗本領となるが、宝永三年(一七〇六)再び旗本領の二給に復した。


金田村
かんだむら

[現在地名]千厩町清田きよた

千厩村の東にあり、ほぼ中央を清田川が北西に流れ、東西に気仙沼けせんぬま街道が走る。村名は、中奥玉なかおくたま村の桜森さくらもり神社に藤原秀衡が寄進した神田があったことから神田かんだとよばれ、のち金田となったと伝える(「桜森神社略伝」桜森神社文書)。元亀二年(一五七一)七月一日の葛西晴信知行宛行状写(高田本称寺文書)に「金田村」とみえ、陸奥栗原くりはら郡での大崎氏との合戦の戦功により、当村一万刈が千葉飛騨守に宛行われた。寛永一九年(一六四二)の金田村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田二〇町六反余・代二五貫二五六文、畑二六町五反余・代六貫九〇九文、名請人数二〇。


金田村
きんでむら

[現在地名]口和町金田

恵蘇えそ郡の南西部、西城さいじよう川の北側に位置し、北は永田ながた村、東は高茂こうも(現庄原市)、南は西城川を挟み水越みずこし(現庄原市)、西は西城川支流のはぎ川を挟み三次みよし東入君ひがしいりぎみ(現双三郡君田村)と接する。萩川が村の西端を南流し、中央を湯木ゆき川が南流する。村域東部には七塚ななつか古墳群(一―九号)・金田古墳群(一―七号)など多数の古墳が分布し、石谷いしだに塩谷しおだにには古墳時代の住居跡がある。


金田村
きんだむら

[現在地名]守口市金田町二―六丁目など

大庭一番おおばいちばん村の南、同二番村の東にあり、近世に大久保おおくぼ(大窪)(庄)とよばれた地域の北端に位置する。中世にも大窪庄に含まれており、天福元年(一二三三)一二月七日の三宅延恒畠地売券(勝尾寺文書)勝尾かつお(現箕面市)に売却する畑三〇〇歩の所在地を記して「在下大窪御庄内字金田」とみえる。


金田村
かねだむら

[現在地名]坂戸市金田

沢木さわき村の西にあり、南は新堀にいほり村、北は越辺おつべ川を境に比企郡石坂いしざか(現鳩山町)。応永四年(一三九七)五月三日の室町幕府管領斯波義将宛の足利氏満挙状写(報恩寺年譜)に、吾那式部丞光泰が安堵を申請した所領の一として入西につさい浅羽あさば郷内金田在家一宇田畠がある。近世には入間いるま郡入西領に属した(風土記稿)。田園簿では田一一一石余・畑二六石余。旗本多田領で以後幕末まで続く。検地は承応三年(一六五四)に行われた。化政期の家数一〇余。鎮守は神明社(風土記稿)。文久二年(一八六二)から慶応元年(一八六五)にかけて長岡ながおか村年寄要助の越辺川での水車稼に端を発した規模の大きな用水出入があった。


金田村
かねだむら

[現在地名]三浦市南下浦みなみしたうら町金田

浦賀うらが水道に面して長く続く砂浜の南端に位置し、砂浜が大きく取囲む入江を金田湾とよぶ。北は菊名きくな村、南は松輪まつわ村に接する。集落は海岸部および山に向かって延びる谷戸にある。標高四〇―六〇メートルの海食台地上は畑となっている。建武二年(一三三五)九月二七日の足利尊氏充行下文(県史三)に「三浦内金田」とあり、中先代の乱の恩賞として三崎みさきなどとともに三浦高継に宛行われている。小田原衆所領役帳に正木兵部太輔「百十九貫九百拾九文 金田」とある。

延宝三年(一六七五)松輪村との境にある共有の秣場をめぐり争いがあり、その後海上へも向けられ、漁場争論となった(元禄八年「証文之事」藤平文書)


金田村
かねだむら

[現在地名]長生村金田

七井戸なないど村の南東方に位置し、一宮いちのみや川が流れる。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。「和名抄」記載の長柄ながら兼陀かねだ郷の遺称地とする説がある。千葉大系図に上総権介広常の弟頼次が長柄郡金田郷を領し金田小大夫と称したとあり、これを当地とする説があるが、望東もうとう郡金田保(現木更津市)ともいう。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四四七石。寛永一九年(一六四二)から高二七六石余が旗本岡部領となり(文化一二年「岡部氏知行所村々覚」大森家文書)、幕末に至る。


金田村
かなだむら

[現在地名]小倉北区金田一―二丁目

菜園場さえんば村の南東に位置し、村域は小倉城下の外堀から板櫃いたびつ川右岸に広がる。長崎街道の到津いとうづ口にあたる。元和八年人畜改帳の至津いとうづ村の項に「御菜園場、八幡領、祇園領、金田、干上共ニ」とあるので、同村の内であったと考えられる。郷村高帳では高四四一石余、うち新田高二三八石余。幕末の各村覚書では本高二〇三石余、田一三町八反余・畠三反余、物成一六六石余、竈数四一・人数一六四、牛一六・馬五、稲荷社などがある。旧高旧領取調帳では高二三九石余。


金田村
かねだむら

[現在地名]彦根市金田町

彦富ひこどめ村の北東、野部のべ村の北西に位置。慶長高辻帳に村名がみえ高七二七石余。江戸時代を通じて彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば人数一三二、うち寺社方三。延享三年(一七四六)の年貢割付状(金田共有文書)によれば高は同前で、免は四ツ四分、年貢高三二〇石余のうち三〇石余は大豆で納入。このほか指口米・夫米などで四七石余を納めることになっている。慶応二年(一八六六)九月の年貢減免願(同文書)は、この年五月以来の洪水や大風で、領内は残らず白穂となり、収穫のあった田地はいかほどもなく、天保六年(一八三五)の凶作以来の不作であると述べている。


金田村
きんたむら

[現在地名]柏村広須ひろす

田圃を隔てて東は近岡ちかおか村の支村上近岡かみちかおか村、北は玉水たまみず村、西は広萢ひろやち村、南西は下中野しもなかの村に接する。

享保一二年(一七二七)には広須組に属し、広須通二三ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。享保一六年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二六町八反六畝二三歩、村高は一八九・五六五石であった。うち田方は二五町一反八畝一八歩で一八二・六九三石、上田から下々田まで設定され、下田が九町二反五畝六歩、六四・七六〇石とあり、畑方は上畑がなくほぼ同面積の中・下・下々畑で、屋敷地を含めて合計一町六反八畝五歩、六・八七二石とある。


金田村
かなだむら

[現在地名]豊橋市石巻いしまき

石巻山の南麓の村。近世を通じて吉田藩領。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地では、高五〇五石余うち石巻大明神領二石である。享保一〇年(一七二五)の二川宿助郷帳(橋良文庫蔵)によると、村高五七四石のうち助郷高四二八石で、二川ふたがわ宿まで一里一〇町。正保三年(一六四六)からの金田村皆済目録(金田区有)によると、物成として茶・椿などを納めている。


金田村
かねだむら

[現在地名]上河内村金田

高松たかまつ村の東に位置し、南西部を山田やまだ川が東流する。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、明和元年(一七六四)宇都宮藩領、天明三年(一七八三)から幕府領(「組合十一ヶ村高改諸事覚帳」篠崎多重文書)、寛政一一年(一七九九)宇都宮藩領に戻り幕末に至る。慶安郷帳では高三〇五石余、田方二二五石余・畑方八〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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