入間川村(読み)いるまがわむら

日本歴史地名大系 「入間川村」の解説

入間川村
いるまがわむら

[現在地名]狭山市入間川一―四丁目・入間川・富士見ふじみ一―二丁目・祇園ぎおんさわ・狭山・狭山台さやまだい稲荷山いなりやま一―二丁目

北東流する入間川右岸にあり、北は上奥富かみおくとみ村、南は北入曾きたいりそ村、西は入間川を隔てて上広瀬かみひろせ村・下広瀬村および黒須くろす(現入間市)。江戸秩父道がほぼ南北に通り、中央を川越と八王子を結ぶ道、南の北入曾村境を新河岸道がそれぞれ東西に通る。中世には鎌倉街道上道が通り、かみで入間川を渡河していたという(風土記稿)。「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)四月二六日条に、源(木曾)義仲の嫡男志水(清水)冠者義高が源頼朝の放った追手堀親家の郎従藤内光澄により「入間河原」で討たれたとあり、この入間河原を当地に比定する説がある。元仁二年(一二二五)二月一〇日京を発った信生法師(宇都宮朝業)は「いるま川の宿」で歌を詠んでおり(信生法師日記)宿場がすでに成立していたことがうかがえる。元弘三年(一三三三)五月の鎌倉攻撃に際し、新田義貞は「入間河」に布陣し、諸将の軍忠を証した(同年六月日「塙政茂軍忠状」塙文書)。文明一八年(一四八六)に関東に下向した聖護院道興は堀兼ほりかねから笹井ささいへ向かう途中「やせの里」から入間川を通り、「此河につきてさまさまの説有、水逆になかれ侍るといふ一義もあり」などと様子を記している(廻国雑記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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