デジタル大辞泉
「狭山市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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狭山市
さやまし
面積:四九・〇二平方キロ
県南西部に位置し、北は日高市、北から東は川越市、南は所沢市、西は入間市・飯能市と接する。中央部を南西から北東に向かい入間川が流れ、その南を不老川が同方向に流れる。入間川北側は入間台地、南は武蔵野台地となっている。入間川に並行して国道一六号が通り、西部を国道四〇七号と二九九号が通る。北部では首都圏中央連絡道路が建設中。西武新宿線が南から東へ弓状に走り、西の一端を西武池袋線が通る。
〔原始・古代〕
旧石器時代の遺跡は入間川北岸の台地縁辺部に位置する宮地遺跡・森ノ上西遺跡、台地からやや奥まった小さな谷沿いにある西久保遺跡、不老川支流久保川沿いにある上中原遺跡がある。西久保遺跡からはナイフ形石器などが数多く出土した。縄文時代の遺跡は入間川両岸台地上や久保川流域に帯状に分布し、おもな遺跡は前期後半の揚櫨木遺跡、中期の宮地遺跡・丸山遺跡、後期前半の高根遺跡などである。弥生時代の遺跡は現在のところ発見されていない。古墳時代の集落跡は七世紀前半の滝祇園遺跡のみが確認されている。古墳はいずれも群集墳で、上広瀬古墳群・笹井古墳群・稲荷山公園古墳群があり、上広瀬古墳群からは水晶製の切小玉、ガラス製の小玉などの副葬品が出土した。律令制下では大部分が入間郡に属した。入間川左岸は中世以降は高麗郡だが、流路の変化に伴って郷域の変更もあったらしく、奈良―平安時代には入間郡に含まれたとみられる。同時期の遺跡は河川の両岸台地上に所在し、今宿遺跡・宮地遺跡・揚櫨木遺跡・宮ノ越遺跡などからは多量の須恵器が出土している。笹井の東八木窯跡群からは瓦塔の破片や布目瓦、融着した須恵器などが見付かっている。この時代には武蔵国府(現東京都府中市)と上野国府を結ぶ入間道(東山道武蔵路)がほぼ南北に縦貫し、北入曾にある漏斗状をした七曲井はその頃掘られたものと推測されている。宝亀一一年(七八〇)一二月九日の西大寺資財流記帳(西大寺文書)にみえる入間郡榛原庄を、中世に上広瀬・下広瀬を中心とした一帯にあった春原庄と関連づけて市域に比定する説がある。上広瀬・下広瀬は「和名抄」所載の入間郡広瀬郷の遺称地とされ、貞観一四年(八七二)三月九日の貞観寺田地目録帳(仁和寺文書)にみえる入間郡広瀬庄も同所一帯に比定される。上広瀬にある広瀬神社は「延喜式」神名帳記載の入間郡「広瀬神社」に比定される。
〔中世〕
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、古代の入間道は鎌倉街道に変わった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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狭山〔市〕
さやま
埼玉県中央南部,入間川の中流域にある市。 1954年入間川町と入間,堀兼 (ほりかね) ,奥富 (おくとみ) ,水富,柏原の5村が合体して市制。市域は中央部を貫流する入間川の沖積低地を除くと,大部分は武蔵野台地に位置する。中心市街地の入間川は鎌倉街道の入間川渡河点を中心に発達し,江戸時代には市場町として繁栄。明治以降も綿織物や狭山茶の集散地として栄えた。 66年川越・狭山工業団地が完成し,約 60社が移転して工業都市化した。農村部はサトイモ,ホウレンソウを中心とした野菜栽培が主で,ほかに狭山茶が特産。南部の台地上には,航空自衛隊入間基地がある。北入曾に江戸時代に掘られた県指定の史跡「七曲りノ井」,柏原にこども動物園がある。西武鉄道,国道 16号線,狭山環状有料道路が通る。面積 48.99km2。人口 14万8699(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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