旅行者のための休憩、宿泊の施設や人馬の輸送機関がある集落をいう。
制度化されたものでは、律令制(りつりょうせい)による駅が最初であるが、駅制(駅伝制)が平安時代のなかばに崩れたのちに、宿(しゅく)が発達した。多くは河川、港湾その他水陸の交通の要地にできて、平安時代からすでに遊女も存在していた。淀川(よどがわ)に沿った江口、神崎(かんざき)、蟹島(かにしま)などでは旅人に情を売る遊女が多く、大江匡房(おおえまさふさ)の『遊女記』には「天下第一之楽地也(なり)」と記されている。なかでも京都に近い江口の遊女は教養もあって、貴族の別荘に招かれることもあった。足柄山(あしがらやま)の東麓(とうろく)の宿にも遊女のいたことは『更級日記(さらしなにっき)』で知られる。平安末期からは美濃(みの)の青墓(あおはか)、三河の池田、相模(さがみ)の大磯(おおいそ)などには、宿を統轄する宿の長者が現れ、身分的には武士に属したようで、その地の有力者であった。遊女のなかには身分の高い者の娘や教養の深い者もいた。鎌倉幕府では東海道の宿ごとに早馬(はやうま)を置いたり人夫を常備させたりしたので、宿が休泊や運輸・通信の機能を備え、令制の駅のように公用旅行者を第一対象としていたことが知られる。しかし旅行者が増加するにつれて、繁栄した宿場もあって、浜名湖西岸の橋本宿には多数の遊女もいて、源頼朝(みなもとのよりとも)が1190年(建久1)に上洛(じょうらく)したときには、その宿所に群参し、頼朝は贈り物を与えたり、ともに連歌(れんが)を行ったりした。その一方、平安末期から上皇や貴族が頻繁に参詣(さんけい)していた熊野への道は、和泉(いずみ)から紀伊にかけて若干の宿があった程度で、馬匹の供給や宿泊施設は不十分であった。南北朝から室町時代へかけては戦乱状態が続いたが、その間にも地方都市が発達し、その間をつなぐ交通路や伝馬の制も発達したが、宿場としてはとくに著しい進歩はなかった。
[児玉幸多]
江戸時代の東海道、中山道(なかせんどう)、美濃路の多くの宿場は、戦国時代の間に成立していた。商人の活躍によって、交通の要地には問(とい)または問丸(といまる)とよばれる運輸業者兼倉庫業者が現れ、伊勢(いせ)参宮者や巡礼などが増えるにつれて、社寺の門前町も発達した。小田原北条、武田、今川、上杉などの領内には伝馬制が整備されて、飛脚の制も発達し、海運の発達につれて、津軽の十三湊(とさみなと)、越前(えちぜん)の敦賀(つるが)、三国(みくに)、瀬戸内の赤間関(あかまがせき)、門司(もじ)その他の港町の成立もみられた。これらの門前町や港町には旅宿もでき、ときには遊女もいて、近世の宿場町の形態に近づいてきた。宿場が急速に発達したのは江戸幕府になってからで、徳川氏は1601年(慶長6)以来、東海道、中山道などに宿を置いてこれをしだいに整備し、寛永(かんえい)(1624~1644)ごろには主要街道の宿は成立し、1659年(万治2)からは道中奉行(どうちゅうぶぎょう)を置いて五街道などの主要街道を管理させた。その他の街道には、そこを支配する領主が類似した制度をたてて交通の便を図った。
[児玉幸多]
宿は駅ともよばれ、宿場ともいう。宿場の任務は、旅行者やその荷物を運搬し、あるいは幕府公用の書状を運ぶために、一定数の人馬を用意しておくことと、宿泊や休憩のために旅籠屋(はたごや)や茶店などを設けておくことなどであった。宿場は古くからの交通の要地がそのまま用いられたところもあれば、城下町の一部が伝馬町に指定されて宿となることもあり、新しく住民を集めて宿場をつくったこともある。宿の多くは街道に沿って地割をし、そこに住む者が人馬を提供する義務を負った。そこを伝馬屋敷という。馬を出す屋敷と作業員を出す屋敷とは1年交代でかわっていたが、やがて人馬が出せなくなると、代金で納めるようになり、間口に応じて出すことも行われた。その代金で人馬の請負人から買い上げたのである。この人馬のことを扱うのが問屋で、宿役人の長で、その下に年寄(としより)という補佐役がいて、問屋の家の一部である問屋場へ出勤をし、帳付(ちょうづけ)(書記)や人馬指(じんばさし)(人馬に荷物を振り当てる者)などを指図して、継立(つぎたて)業務を行った。問屋は1宿に2人または3人いたところもあり、その場合には1か月のうち半月交代とか10日交代に勤めた。大名の休泊のために設けられたのが本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん)で、1宿に数軒あることもあり、門、玄関、書院などを設けていた。本陣・脇本陣では大名や公家(くげ)などの休泊のないときには一般旅行者を泊めていた家も多い。一般旅客は旅籠屋に泊まったが、江戸時代初期には食糧を携帯していて、燃料だけを買って煮炊きする木賃宿(きちんやど)が普通で、17世紀末ごろには食事を提供する旅籠屋が一般的になった。1843年(天保14)の調べによると、東海道では熱田(あつた)が248、桑名(くわな)が120、岡崎が112軒で、品川、小田原、浜松、四日市が90軒を超えている。旅籠屋には食売女(めしうりおんな)(飯盛女(めしもりおんな))を置くものもあり、それを食売旅籠屋、置かないのを平旅籠屋(ひらはたごや)といった。食売女のいる宿場には宿泊者も多くなったので、道中奉行も宿の経営のために、それを許可した場合がある。ことに江戸出口の品川、板橋、千住(せんじゅ)、内藤新宿には多数いて、ほとんど遊廊(ゆうかく)に異ならなかった。旅人の休息のためには茶屋があり、昼食などを提供したが、宿泊はさせない規定であった。また旅人に必要なわらじや土地の産物を売る店屋もあった。宿場と宿場の中間には、間(あい)の村、間の宿などと称して、茶店などがあって、旅行者の休息するところもあったが、幕府では宿場を保護するために、間の宿での宿泊を禁じていた。幕府役人のごとき公用旅行者は人馬賃銭も旅籠銭も安い公定のものを払うにすぎなかったので、宿場は参勤交代の大名や一般旅行者からの収入によってその補いとしたが、幕末になって対外事情や国内情勢が逼迫(ひっぱく)するにつれて、公用旅行者が多くなり、宿場はその負担に耐えかねるようになった。
[児玉幸多]
『大熊喜邦著『東海道宿駅と其の本陣の研究』(1942・丸善)』▽『新城常三著『新編社寺参詣の社会経済史的研究』(1982・塙書房)』▽『丸山雍成著『近世宿駅の基礎的研究 第1・第2』(1975・吉川弘文館)』▽『児玉幸多著『宿駅』(1960・至文堂)』▽『大島延次郎著『日本交通史概論』(1964・吉川弘文館)』
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…そして1870年(明治3)本陣,脇本陣の名称が廃止され,72年には伝馬所も助郷も廃止となった。宿場の機能は陸運会社に受け継がれたが,鉄道の普及とともに宿場は衰退した。宿場町【児玉 幸多】。…
…これ以外の輸送には幕府,諸藩などの御用であることを表示した御用商人の商品が会符(えふ)荷物として行われるにすぎなかった。2里,3里の間隔で設置された宿場(宿駅)ごとに馬を替え,問屋場(といやば)口銭を支払う制度の下では,荷傷みは増し,運賃は高額になり,輸送日数が多くかかって,商品輸送の道としては不適当であった。五街道以外の地方道にあっても,大藩や多数の藩が参勤交代に利用する道には,五街道に準ずる宿場が設けられて,同じような公用優先の利用規定が定められた。…
…こうした名称と分類は大正時代まで残っていたようで,昭和になってから宿屋という言葉がしだいに廃れ,代わって旅館が広く用いられるようになった。
[歴史]
江戸時代に五街道を中心として交通上の施設が整備されたが,各街道筋には宿場町が発達し,宿場には,本陣,旅籠(はたご),木賃宿の3種の宿泊施設があった。本陣とは,大名など身分の高い人々のための施設で,1635年(寛永12)に参勤交代の制度が施行されてから,江戸幕府によって駅制整備の一環として本格的に整備された。…
※「宿場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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