日本歴史地名大系 「八瀬窯風呂跡」の解説
八瀬窯風呂跡
やせかまぶろあと
八瀬大橋の西詰を上流へ一〇〇メートル入った八瀬川畔にある。窯風呂は半円形の窯の中に青松葉をたき、窯中の土が十分に熱せられた頃合をみはからって火を引き、水をまき、塩水を浸した筵を敷いてその上に寝ころんであたたまる風呂で、蒸風呂、いわゆるサウナ風呂の一種である。天武天皇が壬申の乱で背に矢を受け、里人が窯風呂をもってその矢傷を治したと伝える。
窯風呂は薬風呂として中世以来利用され、京都では岩倉などでも行われた。「言経卿記」文禄四年(一五九五)四月六日条に「西御方ヘ暮罷向了、クリ快気散所望、一包遣了、明日朝ニ八瀬里カマヘ養生ノ為ニ罷向之云」と記す。また、鴻池家伝来の少庵茶杓「矢瀬」に少庵の次子山科宗甫の添状があり、
と記されて、利休が八瀬の窯風呂に湯治に行くなど、近世初頭すでに流行していたことがわかる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報