兵庫中庄(読み)ひようごなかのしよう

日本歴史地名大系 「兵庫中庄」の解説

兵庫中庄
ひようごなかのしよう

六甲ろつこう山地西部南麓の沖積地を中心に成立した兵庫庄の一部。単に中庄ともいう。兵庫庄は皇室領庄園で、兵庫三箇ひようごさんか庄ともいい、寿永三年(一一八四)以前に上・中・下に分れていたと推察され、領家は池大納言平頼盛(→兵庫庄。正応二年(一二八九)七月二八日の某寺領寄進状案(円蔵院文書)に「兵庫中庄」がみえ、妙法みようほう(現須磨区)毘沙門五大尊に庄内の山野開発田畠荒野が寄進され、その四至は西は兵庫下庄境、南は神撫かんなで(高取山)山裾であった。また建武四年(一三三七)四月一六日の沙弥某田地寄進状(長田神社文書)によれば、兵庫中庄公文くもん名のうち、一二条二里一〇坪にある田一段が長田神社に寄進されており、この条里坪は苅藻かるも川流域と推定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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