畠山政長(読み)はたけやままさなが

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

畠山政長
はたけやままさなが

[生]嘉吉2(1442).山城
[没]明応2(1493).閏4.25. 河内
室町時代中期の武将。室町幕府の管領 (在職 1464~67) 。弾正少弼,尾張守,左衛門督。持富の子。叔父持国の養子。畠山家では享徳3 (54) 年持国とその子で家督の義就に対し,家臣が反対して細川勝元の力をかり,持国の甥弥三郎 (実名不明) を擁立して争った。弥三郎の死後は政長が推され,長禄4 (60) 年政長は持国父子を追払い家督となった。ここに畠山氏は2流に分裂。一時和したが,抗争を続け政長が優勢であった。文正1 (66) 年義就が山名宗全に迎えられて入京し,翌年ついに応仁の乱となった。政長は以後3度管領に補任されて幕府の長老となったが,その専横を諸将に憎まれ,明応2 (93) 年細川政元,山名,一色氏らに攻められ,河内正覚寺城で自刃。

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百科事典マイペディアの解説

畠山政長【はたけやままさなが】

室町中期の武将。畠山持国の弟でのちに養子となった持富の子。室町幕府三管領家の一で,河内(かわち)・紀伊(きい)・越中(えっちゅう)などの守護でもある畠山家の家督をめぐり,持国の実子義就(よしなり)と対立。細川勝元の助けを得て京都で激戦,応仁・文明の乱の一大原因となる。乱後,将軍の足利義稙(よしたね)と河内に出陣中,細川政元に攻められ自刃。
→関連項目新撰長禄寛正記畠山義就山城国一揆

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

畠山政長 はたけやま-まさなが

1442-1493 室町時代の武将。
嘉吉(かきつ)2年生まれ。畠山持富の子。畠山持国の実子義就(よしなり)と家督をあらそい,応仁(おうにん)の乱を誘発した。河内(かわち)・紀伊(きい)・越中・山城守護,数度にわたり管領(かんれい)となるが,細川政元に攻められ,明応2年閏(うるう)4月25日自殺した。52歳。幼名は弥二郎,次郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

畠山政長

没年:明応2.閏4.25(1493.6.9)
生年:嘉吉2(1442)
室町時代の武将。父は持富。室町幕府管領,河内・紀伊・越中守護。いったんは父持富が宗家持国の跡継ぎに決定していながら持国の庶出義就に変更されたため,反義就派の家臣らは兄弥三郎を擁立してこれに対抗。享徳3(1454)年,持国・義就により処罰された弥三郎派は細川勝元の支持を得て反撃,同年8月持国を隠居させ義就を伊賀に没落させた。しかし12月に将軍足利義政は義就を復帰させ,弥三郎は没落。寛正1(1460)年,弥三郎の死後代わって擁立されたのが政長である。同年9月,義就が罷免され政長に家督が与えられた。寛政5(1464)年管領就任。文正1(1466)年に山名持豊(宗全)の援助で義就が許されると,翌年1月こんどは政長が管領を罷免された。政長は上御霊社に陣をとり義就軍と戦うが敗れる。5月,細川勝元が山名方を攻め応仁の乱が始まり,勝元ら東軍が幕府を占拠して義就を敵とみなしたため幕府に復帰。応仁の乱の間事実上南山城を押さえていた義就は,文明9(1477)年の応仁の乱終結とともに河内に下った。以後政長・義就両軍は河内・南山城の支配を巡って戦いを続けることになるが,同17年には両軍とも,山城国一揆により南山城から撤退させられた。明応2(1493)年政長は,義就の死後も子基家に占拠されていた河内を回復すべく将軍足利義材に河内出陣を求め兵を進めるが,その最中,細川政元のクーデタにあい正覚寺を囲まれる。嫡男尚順を紀伊に逃がし,家臣らと自刃した。<参考文献>『富山県史』通史編Ⅱ

(石田晴男)

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世界大百科事典 第2版の解説

はたけやままさなが【畠山政長】

1442‐93(嘉吉2‐明応2)
室町中期の武将。持富の子。畠山義就と惣領職を争い応仁・文明の乱の一大原因となる。乱では東軍に属し奮戦した。1460年(寛正1),67年(応仁1)惣領となり河内・越中・紀伊守護に補任される。64年以来数度管領に任ぜられ,77年(文明9)よりほぼ10年間この任にあり,山城守護も兼任する。93年将軍足利義稙を擁して河内に出陣中,細川政元に攻められ河内正覚寺城で自刃した。【鳥居 和之】

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大辞林 第三版の解説

はたけやままさなが【畠山政長】

1442~1493) 室町中期の武将。室町幕府の管領。伯父持国の養子となり、細川勝元らの援助により家督を継いだが、のち持国の実子義就よしなりと対立、応仁の乱の発端をつくった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

畠山政長
はたけやままさなが
(?―1493)

室町・戦国期の武将。持富(もちとみ)の子。尾張守(おわりのかみ)、左衛門督(さえもんのかみ)。持富の兄畠山持国(もちくに)には嫡出の実子がなく、そのため1448年(文安5)にいったんは持富を家督後継者としたが、直後に庶出の子義就(よしなり)に改めた。しかし、義就の継承に反対する被官衆は持富の子弥三郎を擁立しようとし、それが54年(享徳3)に発覚すると、畠山家を二分する抗争に発展した。弥三郎は59年(長禄3)に病死したため、かわって擁立されたのが弟の次郎政長である。政長は60年9月に細川勝元(ほそかわかつもと)らの援助により家督を相続して、河内(かわち)・紀伊(きい)・越中(えっちゅう)守護となり、河内嶽山(だけやま)城に籠城(ろうじょう)した義就を63年(寛正4)に攻め落として大和(やまと)の吉野に追い、翌年9月に管領(かんれい)に就任した。しかし、細川勝元と対抗する山名宗全(やまなそうぜん)の画策により、66年(文正1)12月河内より上洛(じょうらく)した義就が赦免され、67年正月に管領を罷免された政長は、自邸を焼き上御霊社(かみごりょうしゃ)に陣し、義就と戦闘となり、ここに応仁(おうにん)の乱が始まった。南山城(みなみやましろ)を掌握していた義就は77年(文明9)に河内に下向し、河内の実質的支配権を奪った。政長は翌年山城守護となり、84、85年に南山城で対陣したが、山城国一揆(いっき)の成立により撤兵を余儀なくされた。93年(明応2)、将軍足利義材(あしかがよしき)(義稙(よしたね))とともに政長は、死去した義就の嫡子基家(もといえ)の征伐に河内に出陣したが、細川政元(まさもと)による香厳院清晃(こうごんいんせいこう)(義遐(よしとお)・義高(よしたか)・義澄(よしずみ)と改名)の将軍嗣立(しりつ)の政変にあい、ために基家赦免、政長征伐となり、政元軍に攻められ、嫡子尚順(ひさのぶ)を紀伊に逃した後、閏(うるう)4月25日に河内正覚寺(しょうがくじ)城でおもだった被官衆とともに自害した。勝仙院(しょうせんいん)と号す。[石田晴男]
『『大阪府史 第4巻』(1981・大阪府) ▽『富山県史 通史篇』(1984・富山県)』

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精選版 日本国語大辞典の解説

はたけやま‐まさなが【畠山政長】

室町幕府の管領。畠山持国の弟持富の子。持国の養子となったが、持国に実子義就が生まれたのち追放された。細川勝元らの助けを受けて家督を継いだが、義就と対立。畠山氏二派の抗争は応仁の乱の原因となった。のち細川政元らに攻められて河内で自害。法名実隆寺。嘉吉二~明応二年(一四四二‐九三

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世界大百科事典内の畠山政長の言及

【応仁・文明の乱】より


【経過】

[乱の勃発]
 室町幕府は,このような混乱の中で,67年(応仁1)の年頭を迎えた。正月2日には将軍が管領邸を訪問することが恒例となっていたが,この年中行事が突如として中止されただけでなく,管領畠山政長の幕府出仕が禁じられた。これは管領の解任を意味するものであった。…

【新撰長禄寛正記】より

…室町時代の記録で,長禄・寛正年間(1457‐66)を中心に畠山氏の家督継承問題を主題とする。作者,成立年代ともに不明。畠山持国の養子政長と実子義就が家督を争い,1460年(寛正1)より河内で交戦し,勝利を得た政長が64年管領に任命される模様を中心に,室町幕府の行事や諸大名の動向を記している。ただし畠山弥三郎を政長と同一人物とするのは誤り。《群書類従》所収。【鳥居 和之】…

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