デジタル大辞泉
「長田神社」の意味・読み・例文・類語
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ながた‐じんじゃ【長田神社】
- 兵庫県神戸市長田区長田町にある神社。旧官幣中社。祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)。新羅を征して凱旋した神功皇后が、神託によって奉斎したと伝えられる。長田さん。おついたちさん。
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長田神社
ながたじんじや
[現在地名]長田区長田町三丁目
苅藻川と新湊川の合流地の北、苅藻川左岸に鎮座。旧山陽道に面した区役所西側から旧来の参道が北に延び、「摂津名所図会」には「西国街道の北側に鳥居あり。これより左右並松二町ばかりありて、長田の民家を経て本社に至る」と記す。祭神は事代主神。境内末社に天照皇大神社・八幡社・蛭子社・松尾社・出雲社・月読社・稲荷社がある。旧官幣中社。
「延喜式」神名帳に載る八部郡「長田神社名神大。月次相嘗新嘗」に相当する。「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に、新羅遠征から帰京する皇后の船が難波を目前に進まなくなったため、務古水門に戻って占わせたところ、事代主尊の「吾をば御心の長田国に祠れ」という託宣があった。そこで山背根子の女葉山媛(広田社祭主)の妹長媛を祭主として神託のままに鎮座せしめたとあり、これが当社の創祀とされている。「長田国」は前方は瀬戸内海に臨み、背後は六甲山地に続く高取・鉄拐の山々を負った地で、東は湊川、西は須磨の播磨境までを含むと推定され、湊川・苅藻川・天井川等が境域を南流して海に注ぎ、これらの河川流域に一定の生活圏があったようである。「和名抄」八部郡には長田郷がみえる。
苅藻川は現在は細流であるが、古代はおそらく上流の鵯越・高取山の鬱蒼とした森林から流れ出る豊富な水量をもった河川で、上流部を檜の川という。高取山は六甲山系の独立丘で一名神撫山といい、正応二年(一二八九)七月二八日の某寺領寄進状案(円蔵院文書)によると兵庫中庄に「神撫」があった。ヒノカワは霊の川、カンナデは神奈備に通じるといわれ、苅藻川沿いの当社は背後の山を神の降臨地として遥拝し、あるいはその神を迎えて加護を祈った場所と考えられる。また「日本書紀」には当社と同時に広田社(現西宮市)・生田社(現中央区)も奉斎され、これにより皇后の船は無事航海することができたとある。「延喜式」玄蕃寮によると新羅使来朝時には広田・生田・長田三社は醸造用の稲各五〇束を供出することになっていた。なお祭祀集団について事代主命を祖とする長我孫(「続日本後紀」承和二年一〇月一七日条)一族とする説や、同じく長柄首(新撰姓氏録)一族とする説などがある。
長田神社
ながたじんじや
[現在地名]鳥取市東町一丁目
水道谷の入口、もとの口の水道のあった場所にある。祭神は事代主神・猿田彦神・誉田別尊・菅原道真命。明治初年までは長田大明神と称された。永田大明神とも記され、鳥取の産土神とされる。旧県社。「因府録」には江崎上の惣門(宮内の惣門)の上方、興禅寺の山上にあったとされ、社の礎の跡が残るとある。興禅寺の奥には牛頭天王を祀る栗谿神社があるところから、江崎上の惣門に延びている山鼻を天王の尾と称する。「鳥府志」はもし最初から同所に当社があったならば長田の尾ともいうべきだが、そういわないのは当社が初めは城内の地にあり、鳥取城築城時に移されたからではないかと推測している。
長田神社
ながたじんじや
[現在地名]西伯町馬場
馬場集落の東部にある。古くから長田庄三四ヵ村の総氏神とされた。祭神は誉田別命ほか一九神で、旧郷社。かつては八幡宮といい、今も「八幡サン」の通称でよばれている。康永二年(一三四三)四月銘の造立棟札が残り、また天正一三年(一五八五)出雲三沢城主佐々木為虎による社殿造営を記す棟札も残る。万治二年(一六五九)と延宝九年(一六八一)には鳥取藩主池田光仲が再建し社領七石九斗を寄進。また尼子氏の寄付した面・鏡・弓・矢・靫・矢籠・大般若経・金剛経などがあった(伯耆志)。古くは山の中腹にあったが、享保一二年(一七二七)現在地に移されたと伝える。
長田神社
ながたじんじや
[現在地名]八束村下長田
下長田の字舎下にある。主祭神は事代主命で、天照大御神・素盞嗚命・邇邇芸命・大穴牟遅命を配祀。旧郷社。古くは牛頭天王社といい、明治維新後、現社名に改めた。鳥取県倉吉市の長谷寺所蔵の明徳四年(一三九三)八月八日の梵鐘銘に「牛頭天王姫宮前 作州布施之庄 長田村上下万民 一同願主」と刻されていて、当社所在地が京都祇園社領布施庄に含まれていたことが知られる。
長田神社
ながたじんじや
[現在地名]長野市若穂川田 小出
小出村の山を背に神明造りの社殿がある。境内七段余、参道は西南へ五〇〇メートル延び大門の集落を通る大笹道と接する。祭神は天照大御神・豊受大神である。
宝暦九年(一七五九)松代領神社書上(丸山文庫)には東川田村に神明宮の記載があるが、小出村には「諏方大明神宮」と「若宮八幡宮」のみ記され神明宮はみえない。一説に宝永七年(一七一〇)四月本社を建立、嘉永四年(一八五一)神祇管領家から「神明社」号を允許、明治一一年(一八七八)長田神社と改称したという(上高井誌)。
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長田神社
ながたじんじゃ
神戸市長田区長田町三丁目に鎮座。事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀(まつ)る。『日本書紀』神功(じんぐう)皇后摂政(せっしょう)元年の条に、神功皇后が新羅(しらぎ)よりの帰途、武庫(むこ)の水門(みなと)で、事代主神の「われを長田にまつれ」との神誨(しんかい)を受け、山背根子(やましろねこ)の女長媛(むすめながひめ)に祀らせられたとある古社で、806年(大同1)神封41戸、859年(貞観1)従(じゅ)四位下、延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社、祈年(としごい)・月次(つきなみ)・相嘗(あいなめ)・新嘗(にいなめ)祭の案上の官幣にあずかるほか朝廷の崇敬を受け、中世以降武家の信仰も厚く、豊臣(とよとみ)秀吉は社領五十五石を寄せた。明治の制で官幣中社。例祭10月18日、翌19日鳳輦(ほうれん)の渡御式がある。社蔵の黒漆(くろうるし)金銅製神輿(みこし)は鎌倉時代の初期のものとされ、国の重要文化財である。神戸市民に生田(いくた)神社、湊川(みなとがわ)神社とともに親しまれ、1月1日は「長田さんのお正月」と遠近よりの初詣(はつもう)ででにぎわう。二月節分の追儺(ついな)式のような古式豊かな神事とともに、4月1日の眼鏡感謝祭、4月30日~5月3日の商工祭など新規の祭礼も盛んで、毎月1日、15日は早朝よりの参拝者でにぎわう。
[鎌田純一]
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長田神社 (ながたじんじゃ)
神戸市長田区に鎮座。旧官幣中社。事代主(ことしろぬし)尊をまつる。《日本書紀》によると,神功皇后が新羅より帰還の途中,武庫の水門(むこのみなと)で事代主尊の〈吾をば御心長田国に祀れ〉との神告を受けて山背(やましろ)根子の女,長媛(ながひめ)をしてまつらせたと伝えられる。806年(大同1)に神封41戸を充てられ,859年(貞観1)従四位下を授けられている。《延喜式》には名神大社に列せられ,古くから朝野の崇敬を受けた。とくに節分に行われる追儺(ついな)式は有名。この神事は鬼面・太刀等の制作年代や古文書より,室町時代からのものと考えられ,古態を伝える貴重な神事として兵庫県指定無形民俗文化財になっている。
執筆者:加藤 隆久
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長田神社【ながたじんじゃ】
神戸市長田区長田町に鎮座。旧官幣中社。事代主(ことしろぬし)神をまつる。神功皇后が新羅(しらぎ)より帰国のときの創建と伝える。延喜式内の名神大社。例祭は10月18日。開運招福の神として広く信仰される。節分の追儺(ついな)式が知られる。
→関連項目長田[区]
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長田神社
兵庫県神戸市長田区にある神社。延喜式内社。祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)。南北朝時代の黒漆金銅装神輿は国の重要文化財。
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