利休七哲(読み)りきゅうしちてつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「利休七哲」の意味・わかりやすい解説

利休七哲
りきゅうしちてつ

利休の高弟七人のことで、利休七人衆が古い呼称。その顔ぶれは時期により変動がある。1652年(承応1)に没した奈良の塗師(ぬし)家松屋久重の編になる『茶道四祖伝書』に「七人衆」として、加賀肥前(前田利家(としいえ))、蒲生氏郷(がもううじさと)、細川忠興(ただおき)(三斎(さんさい))、古田織部(おりべ)、牧村兵部(ひょうぶ)、高山南坊(なんぼう)(右近(うこん))、芝山監物(けんもつ)の七人をあげているのが初見。ついで千宗旦(せんのそうたん)の子、逢源斎宗左(そうさ)が1663年(寛文3)夏に執筆した『江岑夏書(こうしんげしょ)』に、「利休弟子衆七人衆」として、前七人のうち前田利家に瀬田掃部(かもん)が入れ替わったほかは同じ顔ぶれをあげ、いずれも武将であることを敷衍(ふえん)している。利休に数多くいた弟子のうち、武将に限ったものであるが、寛政(かんせい)期(1789~1801)に板行された『古今茶人系譜』以後になると、織田有楽(うらく)、荒木村重(むらしげ)あるいは千道安(どうあん)などがあげられるようになり、変動する。一貫して変わらないのは氏郷と三斎の二人だけである。

[村井康彦]

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