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安土(あづち)桃山、江戸初期の武将、茶人。重定の子、通称左介、名は重然(しげなり)。法号宗屋、道号を金甫といった。初め織田信長に仕え、信長横死後は豊臣(とよとみ)秀吉に従い、1585年(天正13)従(じゅ)五位下(げ)織部正(しょう)に叙任され、京都西岡を与えられる。87年九州征伐、90年小田原征伐に従い、92年(文禄1)の文禄(ぶんろく)の役には肥前(佐賀県)名護屋(なごや)に下っている。秀吉の最晩年には御咄衆(おはなししゅう)(御伽衆(おとぎしゅう))の1人に加えられた。98年(慶長3)の秀吉没後は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦には徳川方に属して活躍した。千利休(せんのりきゅう)とは1582年ころより親交し、91年2月、利休が堺(さかい)に蟄居(ちっきょ)を命ぜられたとき、これを細川三斎(忠興(ただおき))と淀(よど)の舟本で見送ったことは有名。のちに利休七哲の1人に数えられるが、利休没後、秀吉の命で利休の茶を改めて武門の茶法を制定したとも伝え、慶長(けいちょう)(1596~1615)初年には茶の湯名人との評を得ている。1603年から8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授(慶長伝授)、10年には江戸城で将軍秀忠(ひでただ)にも茶の湯指南にあたっている。その作意は、形のひずんだ、いわゆる沓型茶碗(くつがたちゃわん)や、多窓形式の茶室、景気を好んだ露地などに示され、大きな影響を与えた。15年(元和1)大坂夏の陣に大坂方に通じた廉(かど)で罪に問われ、6月、伏見木幡(ふしみこばた)の屋敷で自刃した。この大坂の陣にあたり、京屋敷にあった茶席を、早くから親交のあった藪内紹智(やぶのうちじょうち)(剣仲(けんちゅう))に与えたといい、現在京都市下京区西洞院(にしのとういん)藪内家にある、相伴(しょうばん)席を特徴とする燕庵(えんなん)が、その形式を伝えたものという。墓は京都市上京区の興聖(こうしょう)寺にある。
[村井康彦]
桃山時代の武将であり,茶人として知られる。美濃に生まれ,通称を左介,名を重然といった。また景安,古左,古織とも称した。初め美濃の守護大名土岐氏に属していたが,織田信長の美濃平定の際父重定とともに信長に従った。播州攻略に活躍し,信長の死後は豊臣秀吉に属する。山崎の戦,賤ヶ岳の戦,紀州根来(ねごろ)攻め,四国征伐等に出陣し,1585年秀吉が関白に任ぜられると,織部も年来の戦功により従五位下織部正となり,山城国西ヶ岡に3万5000石の領地を与えられた。しかし98年秀吉が死ぬと家督を嗣子重広に譲って隠居し,伏見の自邸でもっぱら茶の湯三昧の生活に入った。1614年10月,大坂冬の陣で重広と東軍に加わるが,佐竹義宣の陣所で流れ弾にあたり負傷した。翌年5月夏の陣で豊臣氏と運命を共にするかのように,織部は重広とともに突然の死罪を申し渡された。その原因は不明。
武将としての織部は堅実に戦歴を重ねた人で,それも槍一筋の手柄というより外交上の功績に負うところが少なくない。織部が個性的でありえ,その個性を十全に生かすことによって美的領域の一世を画したのは,ひとえに茶人としての側面であった。2代将軍徳川秀忠の茶の湯指南を務め,小堀遠州はじめ多くの大名たちの指導にあたり,大名茶を確立する一方,やきものや茶室にもすぐれた才能を発揮した。とりわけ形態,意匠ともにしばしば常形を逸した,異国趣味豊かな,自由で豪放なやきものを創造した。
→織部陶
執筆者:筒井 紘一
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1544?~1615.6.11
織豊期の大名茶人。美濃国生れ。名は重然(しげなり)。千利休の高弟で七哲の1人。はじめ織田信長に仕え,のち豊臣秀吉に従って諸戦に活躍。1585年(天正13)従五位下織部正に叙任され,ついで山城国西岡に3万5000石の知行をえた。2代将軍徳川秀忠の茶道指南役として名をはせた。武家好みの動的で,豪壮・華麗,斬新な感覚で多くの作品をうみ,茶道を大きく改革。茶室には猿面茶室・八窓庵・燕庵があり,茶器は沓形茶碗・餓鬼腹茶碗・織部形伊賀水指などがある。大坂夏の陣で,豊臣方への内通の嫌疑をかけられ切腹。
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…藪内家の代表的な茶室で,古田織部が大坂出陣に際し,京屋敷の茶室を義弟にあたる藪内家初代剣仲に与えたものであると伝えられる。1864年(元治1)の兵火に類焼したあと,摂津有馬の武田儀右衛門が忠実に写し建てていた茶室が移築(1867)されたのが現在の燕庵である。…
…織部焼ともいう。千利休亡き後,豊臣秀吉の茶頭をつとめた大名茶人古田織部正重然の好みの茶陶を焼造したことにその名の由来がある。その始まりは慶長(1596‐1615)初年,加藤筑後守景延が唐津から導入した連房式登窯(元屋敷窯)に求められる。…
…《清巌禅師茶事十六ヶ条》に〈大名有力の茶〉という語があり,町人の茶に対する大名の茶というタイプが意識されている。大名茶といえば歴代徳川将軍の茶道指南とされる古田織部,小堀遠州,片桐石州ら大名茶人の茶風を指すが,織部にはかぶき者的な性格があって大名茶と性格を異にする。遠州,石州の茶は封建社会を支える分限思想や儒教道徳的な徳目をその茶道思想に含み,好みも均衡のとれた洗練度の高い美しさを見せ,また名物道具を中心とする書院台子の茶の伝統をその点前に包含するなど,大名の趣味としての要件を備えているといえよう。…
…心をこめて茶杓をみずから削ることをわび茶の象徴的な行為とし,筒に家名を書いて贈ることも行われた(贈り筒)。古田織部が利休の茶杓を位牌に見立てたことからも知られるように,茶杓に茶人がみずからの人格を託する思想が定着する。現代の茶の湯では竹の中節を〈行〉にみて,竹以外の素材(松,梅,桜,桑など)でつくられたものを〈草〉とするのが一般である。…
… 千利休の死は16世紀を通じて発展してきたわび茶が,大きな曲り角に出会ったことを意味している。17世紀の茶道は,古田織部によって利休の茶が引き継がれるが,織部もまた利休風の激しい茶を好み,織部焼(織部陶)に象徴されるような強烈なデフォルメと不均衡の美を主張した。17世紀初頭の時代風俗である〈かぶき〉の反映ともいえる織部の好みは,織部に利休同様の切腹という悲劇をもたらし,茶道はその弟子小堀遠州の時代となる。…
…あくまでも歩くための庭であって,見る要素は少なかった。町衆の人々にはぐくまれた茶の湯が,利休の弟子の古田織部や小堀遠州のような武将の手に移るころには,かなり内容が変化している。露地は,広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなった。…
※「古田織部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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