デジタル大辞泉
「荒木村重」の意味・読み・例文・類語
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あらき‐むらしげ【荒木村重】
- 安土桃山時代の武将、茶人。摂津伊丹城主。織田信長に仕えたがそむいて敗れる。のち出家して茶道に専念し、豊臣秀吉の保護をうけた。号、筆庵道薫。天正一四年(一五八六)没。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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荒木村重
あらきむらしげ
(?―1586?)
安土(あづち)桃山時代の武将。摂津国豊島(てしま)郡(大阪府)の人。織田信長が将軍足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京都に入り、ついで摂津に進出すると、信長に属した。その後将軍を京都本圀(ほんこく)寺に助け、将軍と信長が戦うや、将軍を槇島(まきしま)城(現宇治市)に攻め、また石山本願寺の付け城を攻略した。信貴山(しぎさん)城攻め、紀州攻め、播州(ばんしゅう)各地の戦いにも手柄をたて、信長からその勇気と才能を高く評価され、ついに摂津一国を任され、重臣として遇せられた。1578年(天正6)信長から謀反の嫌疑を受け、11月有岡城に拠(よ)って抗したが、多くの人質や城兵の惨殺されるのを見殺しにして、毛利(もうり)氏のもとへ逃れた。信長の死後、茶の道で豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、天正(てんしょう)14年堺(さかい)で52歳で没したという。
[中山修一]
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荒木村重 (あらきむらしげ)
生没年:?-1586(天正14)
安土桃山時代の武将,茶人。摂津池田勝正に属したが,のち織田信長と結んだ。1573年(天正1)足利義昭京都追放後,有岡城(旧伊丹城)にて摂津一国の支配を行うとともに石山本願寺攻めの主力として活躍する。78年信長にそむき,翌年敗れて尾道に逃れ,剃髪して道薫と号した。82年信長死後は豊臣秀吉に近侍した。茶を千利休に学び茶人としても著名で,後世七哲の一人に加える書もある。
執筆者:高木 傭太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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荒木村重
あらきむらしげ
[生]天文4(1535)
[没]天正14(1586).5.4? 堺
安土桃山時代の武将。利休七哲の一人。義村の子。摂津伊丹 (有岡) 城主。初め池田氏,さらに三好氏に属し,天正1 (1573) 年織田信長に仕えた。同2年伊丹城を乗取り,四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めた。同6年信長にそむいて攻められ,翌年居城を逃れて毛利氏を頼ったが,のち剃髪して道薫,さらに道董と号し,茶人として豊臣秀吉に仕えた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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荒木村重 あらき-むらしげ
1535-1586 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)4年生まれ。池田勝正,のち織田信長につかえ,足利義昭の京都からの追放に功をたて,摂津一国を支配した。天正(てんしょう)6年石山本願寺・毛利氏とむすんで信長と離反。敗れて人質となった一族郎党を見殺しにして毛利氏のもとに脱出した。のち剃髪して,信長の死後,茶の湯で豊臣秀吉につかえた。天正14年5月4日死去。52歳。通称は弥介。号は道薫。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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荒木村重
あらきむらしげ
1535〜86
安土桃山時代の武将
摂津(大阪府)豊島郡の人。もと三好氏に属し,1573年以降織田信長に仕え,功により摂津一国の領主となった。'78年信長に謀反をおこし,のがれて毛利氏に頼り,剃髪して,茶の湯を学んだ。のち豊臣秀吉に仕え茶会にも参加。千利休の七哲の一人に数えられた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の荒木村重の言及
【池田[市]】より
…1568年(永禄11)上洛した織田信長は池田城を包囲し城下に火をかけ,池田勝正は降伏した。【熱田 公】 池田氏降伏後,その重臣[荒木村重]が台頭して交替し,1574年(天正2)摂津一国支配の本城として伊丹に移った。このとき重臣,御用商人,寺院の一部が伊丹へ移され,79年村重の信長への反乱の際,池田は一層荒廃した。…
※「荒木村重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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