荒木村重(読み)あらきむらしげ

精選版 日本国語大辞典 「荒木村重」の意味・読み・例文・類語

あらき‐むらしげ【荒木村重】

安土桃山時代の武将、茶人。摂津伊丹城主。織田信長に仕えたがそむいて敗れる。のち出家して茶道に専念し、豊臣秀吉保護をうけた。号、筆庵道薫。天正一四年(一五八六)没。

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デジタル大辞泉 「荒木村重」の意味・読み・例文・類語

あらき‐むらしげ【荒木村重】

[?~1586]安土桃山時代の武将・茶人。摂津の人。織田信長に従ったが、背いて地位を失った。のち、道薫どうくんと号し、茶道に専念。茶人として豊臣秀吉に仕えた。利休高弟七人の一。

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朝日日本歴史人物事典 「荒木村重」の解説

荒木村重

没年:天正14.5.4(1586.6.20)
生年:天文4(1535)
戦国時代の武将。丹波国多紀郡(兵庫県)波多野氏の一族の出自という説がある。高村(義村)の子。通称弥介。摂津守。法名道薫。父の代から摂津国人池田勝正に仕えたが,永禄11(1568)年10月,織田信長の来攻に支え切れず勝正に従って降伏。翌年1月,三好三人衆が足利義昭を攻めた本国寺の変では,勝正に従軍してこれを撃退した。その後池田氏が内訌で弱体化すると有力家臣として台頭。天正1(1573)年,茨木城主となって和田惟政を高槻城から追い,摂津東半国を勢力下に置く。同年7月,義昭の槙島城蜂起には織田方として参戦。その功により摂津一国の支配を委ねられた。 天正2年勝正を高野山に放逐し,伊丹城の伊丹忠親を滅ぼし,同城を接収して有岡城と改名。以後山陽方面の軍事を担当し,翌3年播磨浦上氏を攻撃,さらにその翌年には尼崎の海上警備を務めて本願寺に備えた。同5年紀伊雑賀攻めに従軍,翌年羽柴(豊臣)秀吉らと共に播磨上月城主尼子勝久への援軍に加わり毛利氏に対峙した。しかし,同年10月従兄弟に当たる中川清秀の家人が本願寺へ米を売却したという密告により信長に疑われ,釈明しようとしたが果たさず,ついに反逆を決意したといわれる。こうして本願寺,毛利氏側に寝返って,清秀や高山右近らと共に反信長の兵を挙げたが,滝川一益,明智光秀らの攻撃を受け,籠城10カ月におよんだ。その後村重は,同7年9月,ひそかに有岡城の包囲を逃れて尼崎城に入ったが,有岡城は11月に陥落。信長は村重の妻をはじめ30人余を人質とした。村重の同族久左衛門が尼崎に赴いて降伏を説得したが聞き入れず,信長は妻女36人を京都に斬り,家臣およびその妻女600人余を礫刑,火刑に処した。村重は花隅城に逃れたが,翌年7月攻め落とされて毛利氏分国に逃亡本能寺の変後は堺に居住,千利休に茶を学び,宗匠として秀吉に起用された。堺で死去。近世初期風俗画の名手,岩佐又兵衛はその遺子という。

(森田恭二)

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百科事典マイペディア 「荒木村重」の意味・わかりやすい解説

荒木村重【あらきむらしげ】

安土桃山時代の武将。初め足利義昭に仕えたが,1573年織田信長に属し摂津(せっつ)一国を与えられ,石山本願寺大坂御坊)攻撃に当たった。1578年信長に伊丹(いたみ)城を追われ,流浪中を豊臣秀吉に拾われ近侍した。茶人で利休七哲の一人ともいわれる。
→関連項目岩佐又兵衛

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荒木村重」の意味・わかりやすい解説

荒木村重
あらきむらしげ
(?―1586?)

安土(あづち)桃山時代の武将。摂津国豊島(てしま)郡(大阪府)の人。織田信長が将軍足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京都に入り、ついで摂津に進出すると、信長に属した。その後将軍を京都本圀(ほんこく)寺に助け、将軍と信長が戦うや、将軍を槇島(まきしま)城(現宇治市)に攻め、また石山本願寺の付け城を攻略した。信貴山(しぎさん)城攻め、紀州攻め、播州(ばんしゅう)各地の戦いにも手柄をたて、信長からその勇気と才能を高く評価され、ついに摂津一国を任され、重臣として遇せられた。1578年(天正6)信長から謀反の嫌疑を受け、11月有岡城に拠(よ)って抗したが、多くの人質や城兵の惨殺されるのを見殺しにして、毛利(もうり)氏のもとへ逃れた。信長の死後、茶の道で豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、天正(てんしょう)14年堺(さかい)で52歳で没したという。

[中山修一]

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改訂新版 世界大百科事典 「荒木村重」の意味・わかりやすい解説

荒木村重 (あらきむらしげ)
生没年:?-1586(天正14)

安土桃山時代の武将,茶人。摂津池田勝正に属したが,のち織田信長と結んだ。1573年(天正1)足利義昭京都追放後,有岡城(旧伊丹城)にて摂津一国の支配を行うとともに石山本願寺攻めの主力として活躍する。78年信長にそむき,翌年敗れて尾道に逃れ,剃髪して道薫と号した。82年信長死後は豊臣秀吉に近侍した。茶を千利休に学び茶人としても著名で,後世七哲の一人に加える書もある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荒木村重」の意味・わかりやすい解説

荒木村重
あらきむらしげ

[生]天文4(1535)
[没]天正14(1586).5.4? 堺
安土桃山時代の武将。利休七哲の一人。義村の子。摂津伊丹 (有岡) 城主。初め池田氏,さらに三好氏に属し,天正1 (1573) 年織田信長に仕えた。同2年伊丹城を乗取り,四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めた。同6年信長にそむいて攻められ,翌年居城を逃れて毛利氏を頼ったが,のち剃髪して道薫,さらに道董と号し,茶人として豊臣秀吉に仕えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荒木村重」の解説

荒木村重 あらき-むらしげ

1535-1586 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)4年生まれ。池田勝正,のち織田信長につかえ,足利義昭の京都からの追放に功をたて,摂津一国を支配した。天正(てんしょう)6年石山本願寺・毛利氏とむすんで信長と離反。敗れて人質となった一族郎党を見殺しにして毛利氏のもとに脱出した。のち剃髪して,信長の死後,茶の湯で豊臣秀吉につかえた。天正14年5月4日死去。52歳。通称は弥介。号は道薫。

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旺文社日本史事典 三訂版 「荒木村重」の解説

荒木村重
あらきむらしげ

1535〜86
安土桃山時代の武将
摂津(大阪府)豊島郡の人。もと三好氏に属し,1573年以降織田信長に仕え,功により摂津一国の領主となった。'78年信長に謀反をおこし,のがれて毛利氏に頼り,剃髪して,茶の湯を学んだ。のち豊臣秀吉に仕え茶会にも参加。千利休の七哲の一人に数えられた。

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世界大百科事典(旧版)内の荒木村重の言及

【池田[市]】より

…1568年(永禄11)上洛した織田信長は池田城を包囲し城下に火をかけ,池田勝正は降伏した。【熱田 公】 池田氏降伏後,その重臣荒木村重が台頭して交替し,1574年(天正2)摂津一国支配の本城として伊丹に移った。このとき重臣,御用商人,寺院の一部が伊丹へ移され,79年村重の信長への反乱の際,池田は一層荒廃した。…

※「荒木村重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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