加悦庄
かやのしよう
賀悦とも記される。江戸時代の加悦町を中心とする加悦谷南部地域に比定される。
建武四年(一三三七)七月二八日付吉川経久軍忠状(吉川家文書)に「今月廿六日、但馬、丹波、丹後三箇国凶徒等、寄来加悦庄之間、経久最前馳向於彼庄市庭北縄手」と荘名がみえるのが早く、また荘内に市場があったらしいことがうかがえる。
康暦元年(一三七九)九月晦日付二条師嗣御教書(「日本古文書学」所引)には、
<資料は省略されています>
とみえ、殿下渡領である加悦庄へ守護(山名義幸)方給人が侵入したので、それを退け、領家職を全うすべきことを命じている。御前落居奉書には、
<資料は省略されています>
とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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