与謝郡(読み)よさぐん

日本歴史地名大系 「与謝郡」の解説

与謝郡
よさぐん

面積:一六九・一九平方キロ
加悦かや町・野田川のだがわ町・岩滝いわたき町・伊根いね

府北部、丹後国のほぼ中央、東北は半島となって若狭湾に臨み、西・南部は山地である。かつては現宮津市域と併せて与謝郡と称したが、いまは宮津市がその中央部および東南部を占めることによって南北に分断された。北部に伊根町、南部に岩滝町・野田川町加悦町がある。もとの与謝郡と竹野郡・中郡の境界線は奥丹後半島のうちでも最も高い山脈であり、そのなかに太鼓たいこ(六八三・一メートル)いかり峠などがある。

地名の与謝については、藤原宮出土木簡に「与射評」とあるのが早く、また「日本書紀」雄略天皇二二年七月条に「余社郡」、同じく顕宗即位前紀、仁賢即位前紀に「余社郡」、「続日本紀」和銅六年(七一三)四月三日条に「与佐」郡、同書宝亀七年(七七六)閏八月二八日条に「与謝郡」、天平一〇年(七三八)但馬国正税帳(正倉院文書)に「与射郡」、「釈日本紀」巻五に「丹後国風土記曰、与謝郡云々」とある。

〔原始〕

与謝郡の縄文・弥生遺跡の集中する所は野田川町・加悦町一帯の通称加悦谷かやだにである。縄文早期から晩期にかけての遺跡に加悦町有熊ありくま遺跡、弥生中期から後期にかけての遺跡に加悦町明石須代あけしすしろ遺跡・桑飼くわがい小学校庭遺跡その他があり、野田川町では梅谷うめがい遺跡その他がある。弥生時代遺跡と考えうるものが銅鐸出土地・土器散布地・集落跡などを含めて十数ヵ所にのぼっている。

古墳およびその時代の遺跡もまた加悦谷に集中し、与謝郡四町全体の約一八〇ヵ所のうち加悦谷二町がその大半約一五〇ヵ所を占める(一九七二年「京都府遺跡地図」)。単に数だけではなく、古墳の規模でも他の追随を許さず、加悦町蛭子山えびすやま古墳のように全長一四五メートルに及ぶものがある。また時代的にも蛭子山古墳の四世紀代をはじめとして古い時代のものが加悦谷に多い。概して古代政治勢力ならびに文化を象徴する遺跡は、与謝郡では南部に顕著で北部にいくにつれて量質ともに落ちていくのが特徴である。

〔古代〕

丹後国には蛭子山古墳と並んで、白米山しらげやま古墳(加悦町)銚子山ちようしやま古墳(竹野郡網野町)神明山しんめいやま古墳(竹野郡丹後町)など巨大古墳が散在している。その時代は畿内において応神陵・仁徳陵などが造成される頃と考えられている。この地方が大和政権の支配に服していく過程を語るものとして「古事記」に若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)と竹野比売の結婚、美知能宇斯王と丹波の河上かわかみの摩須郎女との結婚、また「日本書紀」に開化天皇と竹野媛の結婚、崇神天皇のとき丹波道主命を丹波に遣わしたこと、垂仁天皇と「丹波の五女」との結婚など大和政権と丹後(当時の丹波)との浅からぬ関係を伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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