室町幕府6代将軍。1429-41年(永享1-嘉吉1)在職。義満の子で義持の同母弟。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。1403年6月21日青蓮院へ入室,08年得度して義円と称した。大僧正,ついで三后に准ぜられ,19年11月天台座主となり,21年4月これを辞する。28年(正長1)1月18日兄義持が後継者を定めず死んだため,石清水八幡宮での鬮(くじ)の結果に従い還俗して家督を継ぐ。初名義宣。従五位下左馬頭となる。義宣の訓が〈世忍ぶ〉に通じるため29年3月征夷大将軍任官のとき義教と改名。累進して32年7月内大臣,翌月左大臣となる。1431年12月三条坊門第(下御所)から義満のいた北小路室町(上御所)に移った。義教は専制政治を目ざし,1428年引付制度を復活して管領の権限を抑制した。また三管領のうち畠山持国を代えて弟持永とし,今川・京極・富樫など諸家の当主に近習(きんじゆ)者を立て,権力集中を図った。さらに39年2月,関東に地方政権的性格をもち幕府に反抗を続けてきた足利持氏を自殺せしめ(永享の乱),翌年5月丹後守護一色義貫,伊勢守護土岐持頼を誅殺し,丹後守護には近臣一色教親をあてた。次は赤松家とうわさされる中で,41年6月24日赤松満祐に誘殺された(嘉吉の乱)。法号は普広院善山道恵。義教は朝廷にも積極的に介入した。称光天皇が没したあと,男子がなかったため伏見宮貞成親王の子を立てて天皇とした(後花園天皇)が,これは義教のはからいであった。南朝の後胤については極力僧侶にしむけ,または討伐して絶滅を図った。廷臣に対しても意に反する者には処罰をもって臨み,1434年までに処罰された廷臣は60名に及んでいる。ことに宮廷内に勢力を強めた裏松家への弾圧は厳しく,室裏松重光女宗子を廃して,正親町(おおぎまち)三条公雅女尹子に代え,宗子の兄義資も処罰された。また寺社統制にも力を入れ,33年,幕府の意に従わなかった延暦寺衆徒を叡山に攻め殺した。義持時代に中止した勘合貿易を再開して財政の資としたことは著名。
執筆者:百瀬 今朝雄
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(今谷明)
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室町幕府第6代将軍。3代将軍義満(よしみつ)の子。応永(おうえい)元年6月13日生まれ。母は醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぼういん)の坊官安芸法眼(あきほうげん)の女(むすめ)藤原慶子。4代将軍義持(よしもち)の同母弟。1403年(応永10)青蓮院(しょうれんいん)に入り、1408年得度(とくど)して義円(ぎえん)と称し、1419年天台座主(てんだいざす)となった。1428年(正長1)義持の死後、幕府重臣たちの合議で鬮(くじ)によって後継者に定められ、還俗(げんぞく)して義宣(よしのぶ)と改名、翌1429年3月元服して征夷(せいい)大将軍に補せられた。このとき義教と改名したが、義宣の訓「ヨシノブ」が「世忍ぶ」に通ずるのを嫌ったためといわれる。以後、累進して従(じゅ)一位、左大臣まで進んだ。義持の後を継いだ初めは、前代の例を踏襲して管領(かんれい)以下宿老の意見に従いながら政務を行ったが、しだいに将軍専制を志向するようになり、その意に従わぬ者に対しては、寺社、廷臣、大名を問わず峻厳(しゅんげん)な態度をもって臨んだ。そのため大名たちの不満、不安を招き、1441年(嘉吉1)赤松満祐(みつすけ)に誘殺された。法号普広院善山道恵。
[新田英治]
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1394.6.13~1441.6.24
室町幕府の6代将軍(1429.3.15~41.6.24)。3代義満の子。4代義持の同母弟。法名普広院善山道恵。従一位左大臣・贈太政大臣。はじめ青蓮院に入室して義円(ぎえん)と称し,天台座主となる。1428年(正長元)義持の死後神籤(くじ)で選ばれ,還俗して義宣(よしのぶ)と改名。翌年元服,将軍就任と同時に義教と改名。はじめ諸重臣の意見を求めつつ政務を行ったが,徐々に将軍専制の志向を強め,有力守護大名の家督改めや,前代まで重用された勧修寺(かじゅうじ)・日野など諸家に対する圧迫を進めた。永享の乱では幕府に対立した鎌倉府を討滅。しかし一色義貫(いっしきよしつら)と土岐持頼の謀殺など,そのきびしすぎる政策は諸大名の不満・不安を招き,赤松満祐に誘殺された。
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…1427年(応永34)播磨・備前・美作の守護であった父義則が死去すると,将軍足利義持は播磨国を幕府領国にしようとするが,結局満祐がこれらを相承する。28年(正長1)足利義教が将軍に決するや,正長の土一揆が京都を襲撃するが,侍所所司であった満祐は奮戦これを退けた。このほか満祐は山城守護ともなり,幕府の中心人物となった。…
…1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。とくに上杉禅秀の乱以後は持氏が禅秀与党の征討と称して,反鎌倉,親幕府的な東国諸氏の討伐を敢行したことによって対立はますます深まっていった。乱後の持氏と憲実との関係も微妙なものであった。持氏は反鎌倉的な東国諸氏に強硬な態度で臨んだのであるが,憲実は融和的,親幕府的であった。…
…1441年(嘉吉1)赤松満祐が,専制化を強めていた6代将軍足利義教を自邸で殺し,みずからも播磨で敗死した事件。義教将軍就位期は,武力対決を辞さない構えをみせた鎌倉公方足利持氏との対立だけでなく,1428年(正長1)8月には持氏の動きと連動しつつ伊勢国司北畠満雅が,南朝後亀山天皇の皇子小倉宮聖承を奉じて挙兵,さらに10月には,天皇,将軍の代替り徳政を要求し,近江や山城以下の土民が蜂起した(正長(しようちよう)の土一揆)。…
…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…
…室町時代初期の能役者,謡曲作者。観阿弥の子で2代目の観世大夫。生年は貞治3年とも考えられ,正確な没年・享年は不明(1436年には健在)。幼名藤若(ふじわか)(前名鬼夜叉(おにやしや)とも)。通称三郎,実名元清。秦氏を称し,父の芸名だった〈観世〉が姓同様に通用しはじめ,世人は観世三郎とも呼んだ。中年以後の擬法名的芸名が世阿弥陀仏で,世阿,世阿弥はその略称。現今は世阿弥と呼ぶことが多い。セアミと清んで呼ぶのは誤り。…
※「足利義教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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