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足利義教 あしかが よしのり

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美術人名辞典の解説

足利義教

室町幕府六代将軍。三代将軍義満の四男、兄は四代将軍義持、子は義政・義視ら。初名は義宣、法諱は義円。初め青蓮院に入室、大僧上となる。兄義持の死去により還俗して征夷大将軍となり、鎌倉府の討滅など専制政治を行う。『新続古今集』撰集を執奏、多くの幕府歌会や連歌会を催し、音阿弥を重用した。嘉吉の乱により、嘉吉元年(1441)歿、48才。

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デジタル大辞泉の解説

あしかが‐よしのり【足利義教】

1394~1441]室町幕府第6代将軍。在職1429~1441。義満の子。初め義円と称し天台座主(ざす)であったが、義持の死後、鬮(くじ)で後継者に選ばれて還俗(げんぞく)し、永享元年(1429)将軍となった。永享の乱鎌倉公方(くぼう)足利持氏を滅ぼしたが、赤松満祐に殺された。→嘉吉(かきつ)の乱

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百科事典マイペディアの解説

足利義教【あしかがよしのり】

室町幕府6代将軍。在職は1429年―1441年。義満の子。初め青蓮(しょうれん)院に入り,義円(ぎえん)と称し天台座主(ざす)となる。兄義持の死後還俗(げんぞく)して家を継ぎ,1429年将軍となり義教と名乗る。
→関連項目足利義視阿弥派鎌倉公方日親満済准后日記

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利義教 あしかが-よしのり

1394-1441 室町幕府6代将軍。在職1429-41。
明徳5年6月13日生まれ。足利義満の子。兄義持(よしもち)の死後,くじにより後継者にえらばれ,還俗(げんぞく)して正長(しょうちょう)2年将軍となる。宿老との合議制をとったがしだいに将軍専制をめざすようになり,不安をもった播磨(はりま)守護赤松満祐(みつすけ)にはかられ,嘉吉(かきつ)元年6月24日殺された(嘉吉の乱)。48歳。初名は義宣。法名は義円。法号は普広院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利義教

没年:嘉吉1.6.24(1441.7.12)
生年:応永1.6.13(1394.7.11)
室町幕府第6代将軍。義満の子で,母は三宝院坊官安芸法眼の娘慶子。義持の同母弟。応永10(1403)年6月青蓮院に入室,同15年3月得度して義円の法名を称す。同18年7月受戒,次いで大僧正に上り,准后の宣下を受ける。同26年11月より翌々年4月まで天台座主。正長1(1428)年1月,義持が嗣子なく急死するに当たり,宿老たちは遺言による後継指名を望んだが,義持は拒否。護持僧満済との協議でくじによる選出を決した。これは家督決定には一族内者の合意を不可欠とする当時の通念に従ったもので,くじの結果義円が後嗣と決定,同年3月還俗して義宣と名乗った。のちの義教である。聖界にあっては准后大僧正という最高位にあったが,還俗後は次第昇進を要すとの意見が通り,まず従五位下左馬頭に叙任,翌年3月元服し,将軍宣下を受けた。永享4(1432)年8月左大臣,淳和・奨学両院別当を兼ね,源氏長者に補された。 治世のはじめは宿老たちの意向に従い合議制を守ったが,同時に評定衆や引付頭人を再設して管領権力の抑止を図り,漸次将軍専制を志向した。正長1年北畠満雅の蜂起を鎮圧し,称光天皇没後は伏見宮貞成の子を迎えて後花園天皇に擁立するなど幕権の威を示したが,性酷薄で残忍を極め,廷臣や諸将を小過を以て大量に処分したので「万人恐怖」「悪御所」と呼ばれて恐れられた。永享7年2月には嗷訴を繰り返す山門を弾圧,中堂は炎上した。同10年8月の関東公方足利持氏の挙兵(永享の乱)に際しては足利義満時以来廃絶していた綸旨を奏請して,これを鎮圧した。守護家の家督にも積極的に介入し,衆議に名を借りて細川氏を除くほとんどの宿老家の手入れを行った。同12年5月,一色義貫,土岐持頼を暗殺し,翌年1月には畠山持国を追放。そのため各守護は恐慌をきたし,先手を打つことで将軍の魔手を逃れんとした赤松満祐により自邸に招かれ,宴席中に斬殺された(嘉吉の変)。権威主義的な点で,父の義満に似ず織田信長に類似する。<参考文献>佐藤進一『日本中世史論集』,今谷明『土民嗷々』

(今谷明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがよしのり【足利義教】

1394‐1441(応永1‐嘉吉1)
室町幕府6代将軍。1429‐41年(永享1‐嘉吉1)在職。義満の子で義持の同母弟。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。1403年6月21日青蓮院へ入室,08年得度して義円と称した。大僧正,ついで三后に准ぜられ,19年11月天台座主となり,21年4月これを辞する。28年(正長1)1月18日兄義持が後継者を定めず死んだため,石清水八幡宮での鬮(くじ)の結果に従い還俗して家督を継ぐ。初名義宣。従五位下左馬頭となる。

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大辞林 第三版の解説

あしかがよしのり【足利義教】

1394~1441) 室町幕府六代将軍(在職1429~1441)。義満よしみつの子。義円と称して僧籍にあったが、義持の死後、石清水社前で諸将が行なった鬮くじによって後嗣と決定。鎌倉公方足利持氏や土岐持頼らを討って将軍の権力を強めたが、赤松満祐みつすけに暗殺された。 → 嘉吉かきつの乱

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利義教
あしかがよしのり

[生]応永1(1394).6.13. 京都
[没]嘉吉1(1441).6.24. 京都
室町幕府6代将軍 (在職 1429~41) 。義満の子。母は三宝院坊官安芸法眼の娘藤原慶子。応永 10 (1403) 年6月青蓮院に入室して義円と称し,同 26年 11月3日天台座主に補せられた。兄義持に後嗣がなかったため,正長1 (28) 年1月 17日,重臣らが石清水社前でくじを引いて義円を後嗣と定め,同 18日義持が死ぬと青蓮院から出て義持の跡を継いだ。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利義教
あしかがよしのり
(1394―1441)

室町幕府第6代将軍。3代将軍義満(よしみつ)の子。応永(おうえい)元年6月13日生まれ。母は醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぼういん)の坊官安芸法眼(あきほうげん)の女(むすめ)藤原慶子。4代将軍義持(よしもち)の同母弟。1403年(応永10)青蓮院(しょうれんいん)に入り、1408年得度(とくど)して義円(ぎえん)と称し、1419年天台座主(てんだいざす)となった。1428年(正長1)義持の死後、幕府重臣たちの合議で鬮(くじ)によって後継者に定められ、還俗(げんぞく)して義宣(よしのぶ)と改名、翌1429年3月元服して征夷(せいい)大将軍に補せられた。このとき義教と改名したが、義宣の訓「ヨシノブ」が「世忍ぶ」に通ずるのを嫌ったためといわれる。以後、累進して従(じゅ)一位、左大臣まで進んだ。義持の後を継いだ初めは、前代の例を踏襲して管領(かんれい)以下宿老の意見に従いながら政務を行ったが、しだいに将軍専制を志向するようになり、その意に従わぬ者に対しては、寺社、廷臣、大名を問わず峻厳(しゅんげん)な態度をもって臨んだ。そのため大名たちの不満、不安を招き、1441年(嘉吉1)赤松満祐(みつすけ)に誘殺された。法号普広院善山道恵。[新田英治]

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世界大百科事典内の足利義教の言及

【赤松満祐】より

…1427年(応永34)播磨・備前・美作の守護であった父義則が死去すると,将軍足利義持は播磨国を幕府領国にしようとするが,結局満祐がこれらを相承する。28年(正長1)足利義教が将軍に決するや,正長の土一揆が京都を襲撃するが,侍所所司であった満祐は奮戦これを退けた。このほか満祐は山城守護ともなり,幕府の中心人物となった。…

【永享の乱】より

…1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。とくに上杉禅秀の乱以後は持氏が禅秀与党の征討と称して,反鎌倉,親幕府的な東国諸氏の討伐を敢行したことによって対立はますます深まっていった。乱後の持氏と憲実との関係も微妙なものであった。持氏は反鎌倉的な東国諸氏に強硬な態度で臨んだのであるが,憲実は融和的,親幕府的であった。…

【嘉吉の乱】より

…1441年(嘉吉1)赤松満祐が,専制化を強めていた6代将軍足利義教を自邸で殺し,みずからも播磨で敗死した事件。義教将軍就位期は,武力対決を辞さない構えをみせた鎌倉公方足利持氏との対立だけでなく,1428年(正長1)8月には持氏の動きと連動しつつ伊勢国司北畠満雅が,南朝後亀山天皇の皇子小倉宮聖承を奉じて挙兵,さらに10月には,天皇,将軍の代替り徳政を要求し,近江や山城以下の土民が蜂起した(正長(しようちよう)の土一揆)。…

【鎌倉公方】より

…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…

【世阿弥】より

…室町時代初期の能役者,謡曲作者。観阿弥の子で2代目の観世大夫。生年は貞治3年とも考えられ,正確な没年・享年は不明(1436年には健在)。幼名藤若(ふじわか)(前名鬼夜叉(おにやしや)とも)。通称三郎,実名元清。秦氏を称し,父の芸名だった〈観世〉が姓同様に通用しはじめ,世人は観世三郎とも呼んだ。中年以後の擬法名的芸名が世阿弥陀仏で,世阿,世阿弥はその略称。現今は世阿弥と呼ぶことが多い。セアミと清んで呼ぶのは誤り。…

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