足利義教(読み)アシカガヨシノリ

デジタル大辞泉 「足利義教」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしのり【足利義教】

[1394~1441]室町幕府第6代将軍。在職1429~1441。義満の子。初め義円と称し天台座主ざすであったが、義持の死後、くじ後継者に選ばれて還俗げんぞくし、永享元年(1429)将軍となった。永享の乱で鎌倉公方くぼう足利持氏を滅ぼしたが、赤松満祐に殺された。→嘉吉かきつの乱

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精選版 日本国語大辞典 「足利義教」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしのり【足利義教】

  1. 室町幕府第六代将軍。義満の子。もと青蓮院門跡義円。正長元年(一四二八正月、義持の死後、将軍職後継者に指名されて還俗。義宣(よしのぶ)と名乗る。翌、永享元年(一四二九)義教と改名。同一二年受衣。嘉吉元年(一四四一)六月二四日赤松満祐によって在職中に暗殺された(嘉吉の乱)。応永元~嘉吉元年(一三九四‐一四四一

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義教」の意味・わかりやすい解説

足利義教 (あしかがよしのり)
生没年:1394-1441(応永1-嘉吉1)

室町幕府6代将軍。1429-41年(永享1-嘉吉1)在職。義満の子で義持の同母弟。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。1403年6月21日青蓮院へ入室,08年得度して義円と称した。大僧正,ついで三后に准ぜられ,19年11月天台座主となり,21年4月これを辞する。28年(正長1)1月18日兄義持が後継者を定めず死んだため,石清水八幡宮での鬮(くじ)の結果に従い還俗して家督を継ぐ。初名義宣。従五位下左馬頭となる。義宣の訓が〈世忍ぶ〉に通じるため29年3月征夷大将軍任官のとき義教と改名。累進して32年7月内大臣,翌月左大臣となる。1431年12月三条坊門第(下御所)から義満のいた北小路室町(上御所)に移った。義教は専制政治を目ざし,1428年引付制度を復活して管領の権限を抑制した。また三管領のうち畠山持国を代えて弟持永とし,今川・京極富樫など諸家の当主に近習(きんじゆ)者を立て,権力集中を図った。さらに39年2月,関東に地方政権的性格をもち幕府に反抗を続けてきた足利持氏を自殺せしめ(永享の乱),翌年5月丹後守護一色義貫,伊勢守護土岐持頼を誅殺し,丹後守護には近臣一色教親をあてた。次は赤松家とうわさされる中で,41年6月24日赤松満祐に誘殺された(嘉吉の乱)。法号は普広院善山道恵。義教は朝廷にも積極的に介入した。称光天皇が没したあと,男子がなかったため伏見宮貞成親王の子を立てて天皇とした(後花園天皇)が,これは義教のはからいであった。南朝の後胤については極力僧侶にしむけ,または討伐して絶滅を図った。廷臣に対しても意に反する者には処罰をもって臨み,1434年までに処罰された廷臣は60名に及んでいる。ことに宮廷内に勢力を強めた裏松家への弾圧は厳しく,室裏松重光女宗子を廃して,正親町(おおぎまち)三条公雅女尹子に代え,宗子の兄義資も処罰された。また寺社統制にも力を入れ,33年,幕府の意に従わなかった延暦寺衆徒を叡山に攻め殺した。義持時代に中止した勘合貿易を再開して財政の資としたことは著名。
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朝日日本歴史人物事典 「足利義教」の解説

足利義教

没年:嘉吉1.6.24(1441.7.12)
生年:応永1.6.13(1394.7.11)
室町幕府第6代将軍。義満の子で,母は三宝院坊官安芸法眼の娘慶子。義持の同母弟。応永10(1403)年6月青蓮院に入室,同15年3月得度して義円の法名を称す。同18年7月受戒,次いで大僧正に上り,准后の宣下を受ける。同26年11月より翌々年4月まで天台座主。正長1(1428)年1月,義持が嗣子なく急死するに当たり,宿老たちは遺言による後継指名を望んだが,義持は拒否。護持僧満済との協議でくじによる選出を決した。これは家督決定には一族内者の合意を不可欠とする当時の通念に従ったもので,くじの結果義円が後嗣と決定,同年3月還俗して義宣と名乗った。のちの義教である。聖界にあっては准后大僧正という最高位にあったが,還俗後は次第昇進を要すとの意見が通り,まず従五位下左馬頭に叙任,翌年3月元服し,将軍宣下を受けた。永享4(1432)年8月左大臣,淳和・奨学両院別当を兼ね,源氏長者に補された。 治世のはじめは宿老たちの意向に従い合議制を守ったが,同時に評定衆や引付頭人を再設して管領権力の抑止を図り,漸次将軍専制を志向した。正長1年北畠満雅の蜂起を鎮圧し,称光天皇没後は伏見宮貞成の子を迎えて後花園天皇に擁立するなど幕権の威を示したが,性酷薄で残忍を極め,廷臣や諸将を小過を以て大量に処分したので「万人恐怖」「悪御所」と呼ばれて恐れられた。永享7年2月には嗷訴を繰り返す山門を弾圧,中堂は炎上した。同10年8月の関東公方足利持氏の挙兵(永享の乱)に際しては足利義満時以来廃絶していた綸旨を奏請して,これを鎮圧した。守護家の家督にも積極的に介入し,衆議に名を借りて細川氏を除くほとんどの宿老家の手入れを行った。同12年5月,一色義貫,土岐持頼を暗殺し,翌年1月には畠山持国を追放。そのため各守護は恐慌をきたし,先手を打つことで将軍の魔手を逃れんとした赤松満祐により自邸に招かれ,宴席中に斬殺された(嘉吉の変)。権威主義的な点で,父の義満に似ず織田信長に類似する。<参考文献>佐藤進一『日本中世史論集』,今谷明『土民嗷々』

(今谷明)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義教」の意味・わかりやすい解説

足利義教
あしかがよしのり

[生]応永1(1394).6.13. 京都
[没]嘉吉1(1441).6.24. 京都
室町幕府6代将軍 (在職 1429~41) 。義満の子。母は三宝院坊官安芸法眼の娘藤原慶子。応永 10 (1403) 年6月青蓮院に入室して義円と称し,同 26年 11月3日天台座主に補せられた。兄義持に後嗣がなかったため,正長1 (28) 年1月 17日,重臣らが石清水社前でくじを引いて義円を後嗣と定め,同 18日義持が死ぬと青蓮院から出て義持の跡を継いだ。同年3月左馬頭,従五位下となり,義宣と改名し,永享1 (29) 年3月9日元服,次いで 15日には参議,左近衛中将に任じ,征夷大将軍に補せられ,義教と改名した。これは義宣が「世を忍ぶ」に通じるのを嫌ったためといわれる。続いて 29日には権大納言,従三位,12月 13日従二位に進み,翌2年 10月 17日従一位。さらに同4年7月 25日内大臣,8月 28日左大臣,12月9日には殿上別当,院大別当,淳和奨学両院別当および氏長者に兼補された。義教の性質は強烈で,将軍の権威の伸長に力を注ぎ,同 10年には,関東に幕府から独立した権力を樹立しようとした鎌倉公方足利持氏を滅ぼし (→永享の乱 ) ,同 12年には一色義貫,土岐持頼ら有力な守護大名を討ち,また興福寺,叡山などの僧徒を攻めて屈服させるなど,大いに幕威を宣揚した。しかし,その策があまりにもきびしかったため,諸将の不満と不安を招き,ついに嘉吉1 (41) 年6月 24日,赤松満祐のために,結城合戦戦勝の祝賀にことよせて彼の邸に招かれ謀殺された (→嘉吉の乱 ) 。法号を普広院殿善山道恵といい,同月 29日,朝廷から太政大臣位を贈られ,7月6日等持院に葬られた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義教」の意味・わかりやすい解説

足利義教
あしかがよしのり
(1394―1441)

室町幕府第6代将軍。3代将軍義満(よしみつ)の子。応永(おうえい)元年6月13日生まれ。母は醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぼういん)の坊官安芸法眼(あきほうげん)の女(むすめ)藤原慶子。4代将軍義持(よしもち)の同母弟。1403年(応永10)青蓮院(しょうれんいん)に入り、1408年得度(とくど)して義円(ぎえん)と称し、1419年天台座主(てんだいざす)となった。1428年(正長1)義持の死後、幕府重臣たちの合議で鬮(くじ)によって後継者に定められ、還俗(げんぞく)して義宣(よしのぶ)と改名、翌1429年3月元服して征夷(せいい)大将軍に補せられた。このとき義教と改名したが、義宣の訓「ヨシノブ」が「世忍ぶ」に通ずるのを嫌ったためといわれる。以後、累進して従(じゅ)一位、左大臣まで進んだ。義持の後を継いだ初めは、前代の例を踏襲して管領(かんれい)以下宿老の意見に従いながら政務を行ったが、しだいに将軍専制を志向するようになり、その意に従わぬ者に対しては、寺社、廷臣、大名を問わず峻厳(しゅんげん)な態度をもって臨んだ。そのため大名たちの不満、不安を招き、1441年(嘉吉1)赤松満祐(みつすけ)に誘殺された。法号普広院善山道恵。

[新田英治]


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百科事典マイペディア 「足利義教」の意味・わかりやすい解説

足利義教【あしかがよしのり】

室町幕府6代将軍。在職は1429年―1441年。義満の子。初め青蓮(しょうれん)院に入り,義円(ぎえん)と称し天台座主(ざす)となる。兄義持の死後還俗(げんぞく)して家を継ぎ,1429年将軍となり義教と名乗る。鎌倉公方足利持氏を滅ぼし,守護大名の相続問題に干渉するなど幕府権力の伸張を図ったため,1441年赤松満祐に殺された(嘉吉の乱)。
→関連項目足利義視阿弥派鎌倉公方日親満済准后日記

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義教」の解説

足利義教
あしかがよしのり

1394.6.13~1441.6.24

室町幕府の6代将軍(1429.3.15~41.6.24)。3代義満の子。4代義持の同母弟。法名普広院善山道恵。従一位左大臣・贈太政大臣。はじめ青蓮院に入室して義円(ぎえん)と称し,天台座主となる。1428年(正長元)義持の死後神籤(くじ)で選ばれ,還俗して義宣(よしのぶ)と改名。翌年元服,将軍就任と同時に義教と改名。はじめ諸重臣の意見を求めつつ政務を行ったが,徐々に将軍専制の志向を強め,有力守護大名の家督改めや,前代まで重用された勧修寺(かじゅうじ)・日野など諸家に対する圧迫を進めた。永享の乱では幕府に対立した鎌倉府を討滅。しかし一色義貫(いっしきよしつら)と土岐持頼の謀殺など,そのきびしすぎる政策は諸大名の不満・不安を招き,赤松満祐に誘殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義教」の解説

足利義教 あしかが-よしのり

1394-1441 室町幕府6代将軍。在職1429-41。
明徳5年6月13日生まれ。足利義満の子。兄義持(よしもち)の死後,くじにより後継者にえらばれ,還俗(げんぞく)して正長(しょうちょう)2年将軍となる。宿老との合議制をとったがしだいに将軍専制をめざすようになり,不安をもった播磨(はりま)守護赤松満祐(みつすけ)にはかられ,嘉吉(かきつ)元年6月24日殺された(嘉吉の乱)。48歳。初名は義宣。法名は義円。法号は普広院。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義教」の解説

足利義教
あしかがよしのり

1394〜1441
室町幕府6代将軍(在職1429〜41)
義満の子。初め青蓮院 (しようれんいん) に入り義円と称し天台座主 (ざす) となったが,兄義持の死後還俗 (げんぞく) し,1429年くじ引きによって将軍となり,義教と改名。'39年永享の乱で鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。義教の守護大名強圧策は諸将の不満を招き,'41年播磨国守護赤松満祐 (みつすけ) のために殺された。

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367日誕生日大事典 「足利義教」の解説

足利義教 (あしかがよしのり)

生年月日:1394年6月13日
室町時代の室町幕府第6代の将軍
1441年没

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世界大百科事典(旧版)内の足利義教の言及

【赤松満祐】より

…1427年(応永34)播磨・備前・美作の守護であった父義則が死去すると,将軍足利義持は播磨国を幕府領国にしようとするが,結局満祐がこれらを相承する。28年(正長1)足利義教が将軍に決するや,正長の土一揆が京都を襲撃するが,侍所所司であった満祐は奮戦これを退けた。このほか満祐は山城守護ともなり,幕府の中心人物となった。…

【永享の乱】より

…1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。とくに上杉禅秀の乱以後は持氏が禅秀与党の征討と称して,反鎌倉,親幕府的な東国諸氏の討伐を敢行したことによって対立はますます深まっていった。乱後の持氏と憲実との関係も微妙なものであった。持氏は反鎌倉的な東国諸氏に強硬な態度で臨んだのであるが,憲実は融和的,親幕府的であった。…

【嘉吉の乱】より

…1441年(嘉吉1)赤松満祐が,専制化を強めていた6代将軍足利義教を自邸で殺し,みずからも播磨で敗死した事件。義教将軍就位期は,武力対決を辞さない構えをみせた鎌倉公方足利持氏との対立だけでなく,1428年(正長1)8月には持氏の動きと連動しつつ伊勢国司北畠満雅が,南朝後亀山天皇の皇子小倉宮聖承を奉じて挙兵,さらに10月には,天皇,将軍の代替り徳政を要求し,近江や山城以下の土民が蜂起した(正長(しようちよう)の土一揆)。…

【鎌倉公方】より

…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…

【世阿弥】より

…室町時代初期の能役者,謡曲作者。観阿弥の子で2代目の観世大夫。生年は貞治3年とも考えられ,正確な没年・享年は不明(1436年には健在)。幼名藤若(ふじわか)(前名鬼夜叉(おにやしや)とも)。通称三郎,実名元清。秦氏を称し,父の芸名だった〈観世〉が姓同様に通用しはじめ,世人は観世三郎とも呼んだ。中年以後の擬法名的芸名が世阿弥陀仏で,世阿,世阿弥はその略称。現今は世阿弥と呼ぶことが多い。セアミと清んで呼ぶのは誤り。…

※「足利義教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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