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古代末期~中世の荘園領主の呼称。
(1)下司(げし),公文(くもん)などの荘官と区別された荘園領主一般をさし,本家,本所などと同義的に用いられた。例えば,《御成敗式目》第6条の〈国司領家の成敗,関東御口入(おんくにゆう)に及ばざる事〉という規定は,鎌倉幕府の支配地域以外の領域を,国司と領家に代表させているが,この場合の領家は,国司=国衙領(公領)との対比から,荘園領主一般を意味していたと考えるべきである。また《式目抄》の〈領家ハ領主ヲ云,家ハ公卿ノ美称也〉〈本所トハ領家也。元来ノ領主ヲ云也〉という二つの規定は,領家に公卿(三位以上の上級貴族)が多かったこと,領家が本所と同義であり,元来の荘園領主を意味したことをよく示している。荘園領主一般としての領家は,11世紀後半,在地領主層が自分の私領を維持するために,年貢の一部上納を条件に,〈権威を募って〉中央の貴族や寺社に名目的寄進を行い,これを領家と仰ぐことによって成立する。したがって領家には実質的な権限がなく,名目的な領主にすぎないと説明されてきたが,近年新しい見解も存在する。それは,寄進をうけた荘園領主の領主権は,立荘以前の国衙の支配権を継承するものであり,寄進主体である在地領主層の私領に対する私的な領主権とは大きく異なった権限である。その権限は荘務権といい,発生史的には公領(国衙領)に対する国衙の支配権=国務を継承したもので,検田権,勧農権,検断権から構成されていた。このような荘務権をもち,現実に荘園の支配にあたった領家を〈本所〉という。したがって,領家がすべて名目的な荘園領主権しかもたなかったといいきることはできない,という考え方である。荘園支配における中核が在地領主層か荘園領主層かという二者択一の論議は不毛であるが,以前のように,荘園領主層=領家の権限を名目的なものに限定して荘園制支配を把握する方法は克服されたといえよう。
(2)在地領主層から寄進をうけた荘園領主が,さらに寄進契約によって名目上の上級領主を仰いだとき,それを区別してみずからを領家と号した。このとき,本家-領家という荘園領主間での重層関係が成立する。例えば,寄進地系荘園として有名な但馬国温泉荘(ゆのしよう)の場合,温泉郷の〈私領主〉=開発領主であった平季広が,権威を募らんがために後白河法皇と関係の深い中央の僧侶阿闍梨大法師聖顕に寄進したが,聖顕は自分の力に不安であったのか,さらに後白河院の御願寺である蓮華王院に,〈領家〉職(しき)の留保と年貢米100石の上納を条件に寄進し本家と仰いだ。ここに下司平季広-領家聖顕-本家蓮華王院という寄進地系荘園の典型的な構造が成立したのである。この場合,領家は本家に対して年貢納入の責任を負うことから預所(あずかりどころ)(本家からみて預所)と称することもあった。平安末期の寄進地系荘園である備後国大田荘では,開発領主から寄進をうけ,さらに後白河院を本家と仰いで寄進した平重衡(清盛の子)は,その寄進に際し,〈預所職に至りては重衡の子孫相伝し知行せしめんがため〉と述べており,領家に位置しながらもみずからを預所と称している。
→荘園
執筆者:木村 茂光
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荘園(しょうえん)制における荘園領主の称。領家は荘園から一定の経済的得分(とくぶん)を得た。これを領家職(しき)といい相伝された。領家は経済的権益を得るかわりに荘園の不輸・不入権を確保し外部からの侵略を阻止していく義務があった。
領家には二義がある。(1)領家を本所(ほんじょ)または本家(ほんけ)とも称する場合。『式目新編追加』に、「諸国御家人跡(ごけにんあと)、領家進止(しんじ)タルノ所々、御家人役事」として、「御家人相伝所帯等、本所進退タリトイエドモ、サセル誤リナク改易セラレルニオイテハ、先度ノ御教書(みぎょうしょ)ノ旨ニ任セテ子細(しさい)ヲ申サルベキナリ」とあって、領家と本所とは同意義に用いられている。『式目抄』にも「本所トハ領家也(なり)。元来ノ領主ヲ云(いう)也」とある。(2)領家が荘園の諸権益を確保するために、さらに寄進契約を行って権門を上級支配者と仰ぐ場合、上級支配者を本所あるいは本家と号した。この場合、領家と本所あるいは本家とは上下の支配関係に置かれ、領家は本家に次ぐ地位にある領有者をさすことになる。たとえば肥後(ひご)国鹿子木(かのこぎ)荘の場合、大宰大弐(だざいだいに)藤原実政(さねまさ)は同荘の開発領主の子孫から「権威ヲ借ランガ為メ」といって寄進を受けて領家となったが、実政の末流願西(がんせい)は、「国衙(こくが)ノ乱妨(らんぼう)ヲ防ガズ」とこれを鳥羽院(とばいん)の皇女高陽院(かやいん)内親王に寄進して、同内親王を本家と仰ぎ、領家得分を割いて本家に納めることにしている。また、領家は本家の預所(あずかりどころ)としての地位にたつことになるところから領家を預所とよぶこともあった。
[奥野中彦]
荘園領主のうち本家の下位におかれた権門勢家。本家職(ほんけしき)が成立していない場合は,領家ひとりが荘園領主であった。平安後期以降の荘園は,平安中期の国免荘(こくめんのしょう)を前提としたものが多く,院政期には,領家であった中流の貴族や官人が,競って上級権力者に国免荘を再寄進した。こうした場合には領家の上位に本家が成立したが,再寄進されないままの荘園も多かった。寺社領の荘園では,平安中期の荘園がそのまま再編されたものも多く,荘園領主は領家のみであった。その権限は,国衙(こくが)公権を分有したものであり,預所(あずかりどころ)や上司(じょうし)を現地に派遣して荘園の経営にあたったが,実際の経営は,下級荘官である下司(げし)などの在地領主層による場合が多かった。なお,領家は職権の面からみるときは領家職とよばれた。
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…肥後国鹿子木(かのこぎ)荘は,根本領主寿妙の孫藤原高方が1086年(応徳3)私領を大宰大弐藤原実政に寄進し〈地頭預所職〉は高方の子孫相伝の職となった。一方実政の権限は,彼がまもなく失脚したため春宮大夫公実の系統に継承され〈領家職〉といわれているが,公実の孫の刑部大輔隆通(願西)は,娘の通子に〈預所職〉を与えている。いわば領家職から分化した預所職である。…
…これは,中央貴族の所有する荘園が全国各地に分散したり,在地武士の開発所領が広大な面積をほこるようになるにつれ,彼らの直接支配が困難になったという事情によるものにほかならない。中央貴族の場合でいうと,荘園を知行する中央貴族を領家(りようけ)といったが,その領家のもとには荘園を支配・管理する役人として,預所(あずかりどころ)が存在しているのが一般的であった。しかし領家の荘園の数が増えるにつれて,預所はすべての荘園を直接管理することが困難になったため,預所代という代官を任命して,荘園の管理に当たらせることにしたのである。…
…(1)古代末期~中世の荘園領主の呼称。荘園に対する進止(しんし)権の主体を意味することばで,本家―領家―預所(あずかりどころ)などと重層的に存在する荘園領主層のうち,現実に荘園の支配にあたる実権者を指した。《式目抄》に〈本所トハ領家也,元来ノ領主ヲ云也〉と規定されているように,荘園領主層のうち領家が本所の権能をもつことが多かった。…
※「領家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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