知恵蔵 「加藤一二三」の解説
加藤一二三
近年は、テレビのバラエティー番組など多くのメディアに出演、将棋への真摯(しんし)な姿勢や独特のキャラクターなどが注目され、「ひふみん」の愛称で親しまれている。
小学校入学前から将棋を始めた。小学4年の時に新聞で将棋の観戦記を読んだことをきっかけに大人と対戦するようになり、上達した。1951年、小学6年で棋士養成機関である奨励会に入り、日本将棋連盟関西本部(大阪)に通い始める。すぐに頭角を現し、指導の場に居合わせた升田幸三八段(当時、その後実力制第四代名人)から「この子、凡ならず」と評された。中学3年でプロ入りして「神武以来(じんむこのかた)の天才」と呼ばれ、その後は毎年昇段した。京都府立木津高校3年だった58年、18歳で名人戦の挑戦権を争うA級順位戦への昇級と、八段への昇段を果たした。
58年の高校卒業後は、早稲田大学第二文学部に入学した(後に中退)。60年、A級順位戦で優勝して大山康晴名人に挑戦、1勝4敗で敗れた。69年、大山康晴十段との十段戦に4勝3敗で勝ち、初めてタイトルを獲得した。
その後は成績不振が続いてタイトル戦に出られなくなり、勝率も5割程度に低下。しかし70年、カトリック教会で洗礼を受けたことをきっかけに事態を打開し、73年、最高位の九段に昇段。77年に棋王を獲得し、78年に王将、80年に十段のタイトルを取った。
82年の名人戦における中原誠名人との対局は、歴史に残る名勝負となった。3勝3敗、持将棋1回、千日手2回の激闘の末、10局目で、念願の名人のタイトルを獲得した。
2000年には、将棋界で6人目(当時)となる紫綬褒章を受章した。還暦となってもA級に在籍したが、02年、62歳でB級へ陥落して以降は振るわず、14年からは最下位のC級2組で戦った。その後も意欲的に対局を重ね、16年12月、藤井聡太四段のデビュー戦となった第30期竜王戦6組ランキング戦での対局は、年齢差62歳6カ月の対局として話題となった(対局は藤井四段が勝利)。だが、順位戦の成績が振るわず、C級2組から降級することとなり、現役引退が決まった。日本将棋連盟の規定では、C級2組からその下のフリークラスに陥落しても、一定の成績を残せばC級2組に復帰できるが、加藤はフリークラスの年齢制限の60歳を超えていたため、残りのすべての棋戦で敗れた時点で引退することとなった。
17年3月、現役最後の順位戦となる第75期将棋名人戦・C級2組順位戦で敗退。6月には、現役最後の対局となった竜王戦第6組昇級者決定戦で敗れ、引退した。対局後は会見を開かず、帰宅後にTwitterを更新、家族や関係者らに感謝の気持ちを示した。後に開かれた会見では「大変すっきりとした気持ち。今まで通りやる気を失わないで、元気よくこれからの人生を歩んでいく」と語った。引退後は、17年6月23日付で仙台白百合女子大学(仙台市)の客員教授に就任した。
将棋では、銀将でストレートに攻める「棒銀」を得意とした。対局では、1手を考えるのに何時間もかける「長考」が多かったが、中盤までに持ち時間を使いきり、1手1分以内に指す「秒読み」となっても好成績を挙げ、「1分将棋の神様」とも呼ばれた。
長いネクタイがトレードマーク。対局中の逸話も多く、記録係に「あと何分」と自分の残り時間を繰り返し尋ねる、旅館の滝の音が気になり止めてもらう、昼も夜もうな重の出前を取る、といったエピソードがある。
私生活では、1960年に中学時代の同級生の女性と結婚、一男三女がいる。熱心なカトリック教徒としても知られ、86年にローマ法王、ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ騎士勲章を受章した。
(南 文枝 ライター/2017年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報