新体制運動(読み)しんたいせいうんどう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

新体制運動
しんたいせいうんどう

1940年6月 24日の近衛文麿の記者会見における声明に端を発して進められた政治運動をいう。近衛の側近の後藤隆之助有馬頼寧風見章らは,当時の新官僚,革新的学者を集めた昭和研究会をつくり,大衆組織を基にして国民を統合し,軍部の動きを抑制して近代的,合理的な社会体制を建設する構想をまとめた。7月に発足した第2次近衛内閣はこれをうけて基本国策要綱で「国内体制の刷新」と「強力な新政治体制の確立」をうたったが,官僚,軍部,右翼,政党,財界など各界の利害は対立し,その圧力によって,10月新体制運動を推進するために組織された大政翼賛会は,国民的政治力の結集のための国民組織から,単に政府の方針を伝達する官僚機関になってしまった。

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百科事典マイペディアの解説

新体制運動【しんたいせいうんどう】

1940年近衛文麿(このえふみまろ)を中心に推進された政治運動。日中戦争の長期化,ヨーロッパにおける第2次大戦の突発,それに伴う政治・経済上の危機,国民の不満の増大などという事態を打開する力が1938年以後の各内閣にはなかった。1940年5月ころから有馬頼寧風見章などを中心に新しい国民組織をつくり上げようとする新党運動が行われ,それが新体制運動の出発となった。同年6月近衛が本格的に新体制運動に乗り出すと各政党,労働組合も自発的に解散し,軍部も〈米内内閣打倒,近衛内閣樹立〉運動を行った。7月第2次近衛内閣の成立後,新体制準備会が結成。近衛は〈万民翼賛〉〈下意上達・上意下達〉を唱え,10月大政翼賛会の成立となったが,保守的な内務官僚,既成政党の主流,軍部,右翼などに妨げられて政治指導の一元化に失敗し,広範な国民組織の確立はできなかった。しかし隣組,部落会,町内会大日本産業報国会などの組織をつくり上げ,東条英機の独裁体制を準備した。
→関連項目麻生久近衛文麿内閣社会大衆党昭和研究会政友会大日本連合青年団東方会民政党米内光政内閣

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世界大百科事典 第2版の解説

しんたいせいうんどう【新体制運動】

1940年に第2次世界大戦の拡大に対処して総力戦体制を急激につくりだすため近衛文麿を中心に推進された政治運動で,日本型のファシズム体制を確立させた。 第1次近衛内閣の末期からすでに日中戦争の行詰りを打開するため強力政権をつくろうとする新党運動ないし国民再組織の動きがおこっていた。40年にはいると,長期戦下の経済危機による国民不満の高まりを背景に斎藤隆夫代議士の反軍演説とその懲罰問題がおこり,既成政党の分解を促進した。

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大辞林 第三版の解説

しんたいせいうんどう【新体制運動】

1940年(昭和15)、挙国一致の戦争指導体制作りを目的として近衛文麿らが提唱した運動。その結果、政党・労働組合は解散し、同年10月大政翼賛会が発足し、ファシズム体制の確立へと向かった。 → 大政翼賛会

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

新体制運動
しんたいせいうんどう

1940年(昭和15)に近衛文麿(このえふみまろ)を中心に起こされたファッショ的政治体制樹立のための政治運動。1937年7月の日中戦争開始以来、国家総力戦体制を樹立するため、強力な権力集中と国民総動員とを実現することが支配層にとって緊急な課題となった。政界再編成が問題となり、37年末以降、政党人を中心とする新党運動が政界の表裏でたびたび企てられた。いずれの新党運動も近衛を総裁とする一大政党の実現という点では一致していたが、近衛が出馬を表明しないため日の目をみなかった。しかし日中戦争の長期化に伴い、1939年後半からインフレ、物資不足、労農争議の増加、「国民精神の弛緩(しかん)」などの危機的な状況が現れた。こうした事態を乗り切るため、近衛と彼の側近である有馬頼寧(ありまよりやす)、風見章(かざみあきら)、後藤隆之助(ごとうりゅうのすけ)らは、1940年3月から近衛新党とそれに立脚する強力な近衛内閣を組織し、軍部を抑制して日中戦争を解決しようと企てた。彼らの新党構想は、ナチス流の国民再組織論を背景に在野で新党運動を推進し、既成政党中の自由主義分子を排除して近衛新党をつくり、そのうえに近衛内閣を組織するというものであり、新党が政党の離合集散であるという既成観念を打破するため、その運動を「新体制運動」とよんだ。
 1940年4月以後のヨーロッパ西部戦線におけるドイツ軍の大勝利を契機に、新体制運動の機運が高まってきたが、これに対する各勢力の要求はさまざまであった。陸軍と革新右翼はナチス流のファッショ的一国一党を主張し、観念右翼は国民精神総動員運動方式を強調し、町内会と部落会を握る内務官僚は、観念右翼に同調しつつ新体制を行政補助機関化しようと画策した。また既成政党は解党して新体制のなかで指導権を確保しようとねらい、財界は新体制に期待しつつも、革新官僚の立案した経済新体制案には反対するというありさまであった。
 1940年6月24日近衛が枢密院(すうみついん)議長を辞任して新体制運動への挺身(ていしん)を表明すると、運動は一挙に盛り上がった。しかし各勢力間の調整に苦しんだ近衛は、「新体制は近衛幕府の再現である」という観念右翼の批判に屈して新党構想を放棄し、全政治勢力を無原則のまま丸抱えにするという新体制構想に移行した。その間、陸軍と革新右翼は、現状維持的な米内光政(よないみつまさ)内閣打倒と近衛内閣成立に狂奔し、7月22日第二次近衛内閣が成立した。これを契機に全政党が解散し、明治以来初めて無政党時代が出現した。同時に自主的な労農団体などは解散を余儀なくされ、各種の官製国民運動団体へ吸収されていった。またこの過程で、町内会、部落会、隣組が内務官僚と警察の指導のもとに一段と整備された。10月12日新体制運動の総決算として近衛首相を総裁とする大政翼賛会が結成され、ファシズム体制が成立した。それは独伊ファシズムのように下からの国民運動の力によらず、上からの天皇制官僚支配の強化として実現され、国民は町内会などの地方自治組織と官製国民運動団体という二本立てのルート(両者は1942年に大政翼賛会の下部組織に編入)を通じ、画一的なファシズム支配下に置かれることとなった。[木坂順一郎]
『木坂順一郎著「大政翼賛会の成立」(『岩波講座 日本歴史20』所収・1976・岩波書店) ▽伊藤隆著『近衛新体制』(1983・中央公論社) ▽赤木須留喜著『近衛新体制と大政翼賛会』(1984・岩波書店)』

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