1940年(昭和15)に近衛文麿(このえふみまろ)を中心に起こされたファッショ的政治体制樹立のための政治運動。1937年7月の日中戦争開始以来、国家総力戦体制を樹立するため、強力な権力集中と国民総動員とを実現することが支配層にとって緊急な課題となった。政界再編成が問題となり、37年末以降、政党人を中心とする新党運動が政界の表裏でたびたび企てられた。いずれの新党運動も近衛を総裁とする一大政党の実現という点では一致していたが、近衛が出馬を表明しないため日の目をみなかった。しかし日中戦争の長期化に伴い、1939年後半からインフレ、物資不足、労農争議の増加、「国民精神の弛緩(しかん)」などの危機的な状況が現れた。こうした事態を乗り切るため、近衛と彼の側近である有馬頼寧(ありまよりやす)、風見章(かざみあきら)、後藤隆之助(ごとうりゅうのすけ)らは、1940年3月から近衛新党とそれに立脚する強力な近衛内閣を組織し、軍部を抑制して日中戦争を解決しようと企てた。彼らの新党構想は、ナチス流の国民再組織論を背景に在野で新党運動を推進し、既成政党中の自由主義分子を排除して近衛新党をつくり、そのうえに近衛内閣を組織するというものであり、新党が政党の離合集散であるという既成観念を打破するため、その運動を「新体制運動」とよんだ。
1940年4月以後のヨーロッパ西部戦線におけるドイツ軍の大勝利を契機に、新体制運動の機運が高まってきたが、これに対する各勢力の要求はさまざまであった。陸軍と革新右翼はナチス流のファッショ的一国一党を主張し、観念右翼は国民精神総動員運動方式を強調し、町内会と部落会を握る内務官僚は、観念右翼に同調しつつ新体制を行政補助機関化しようと画策した。また既成政党は解党して新体制のなかで指導権を確保しようとねらい、財界は新体制に期待しつつも、革新官僚の立案した経済新体制案には反対するというありさまであった。
1940年6月24日近衛が枢密院(すうみついん)議長を辞任して新体制運動への挺身(ていしん)を表明すると、運動は一挙に盛り上がった。しかし各勢力間の調整に苦しんだ近衛は、「新体制は近衛幕府の再現である」という観念右翼の批判に屈して新党構想を放棄し、全政治勢力を無原則のまま丸抱えにするという新体制構想に移行した。その間、陸軍と革新右翼は、現状維持的な米内光政(よないみつまさ)内閣打倒と近衛内閣成立に狂奔し、7月22日第二次近衛内閣が成立した。これを契機に全政党が解散し、明治以来初めて無政党時代が出現した。同時に自主的な労農団体などは解散を余儀なくされ、各種の官製国民運動団体へ吸収されていった。またこの過程で、町内会、部落会、隣組が内務官僚と警察の指導のもとに一段と整備された。10月12日新体制運動の総決算として近衛首相を総裁とする大政翼賛会が結成され、ファシズム体制が成立した。それは独伊ファシズムのように下からの国民運動の力によらず、上からの天皇制官僚支配の強化として実現され、国民は町内会などの地方自治組織と官製国民運動団体という二本立てのルート(両者は1942年に大政翼賛会の下部組織に編入)を通じ、画一的なファシズム支配下に置かれることとなった。
[木坂順一郎]
『木坂順一郎著「大政翼賛会の成立」(『岩波講座 日本歴史20』所収・1976・岩波書店)』▽『伊藤隆著『近衛新体制』(1983・中央公論社)』▽『赤木須留喜著『近衛新体制と大政翼賛会』(1984・岩波書店)』
1940年に第2次世界大戦の拡大に対処して総力戦体制を急激につくりだすため近衛文麿を中心に推進された政治運動で,日本型のファシズム体制を確立させた。
第1次近衛内閣の末期からすでに日中戦争の行詰りを打開するため強力政権をつくろうとする新党運動ないし国民再組織の動きがおこっていた。40年にはいると,長期戦下の経済危機による国民不満の高まりを背景に斎藤隆夫代議士の反軍演説とその懲罰問題がおこり,既成政党の分解を促進した。おりからナチス・ドイツの電撃戦が成功し,〈バスに乗りおくれるな〉と近衛をかついで強力な政治体制をつくり戦争の拡大に備えようとする動きが各方面で活発となった。近衛側近の有馬頼寧,風見章らは〈高度国防国家の完成,外交の刷新,政治新体制の建設〉をスローガンに国民組織を基盤とする新党を結成し軍部をとりこんでこれを統制することを目ざしたし,陸軍の武藤章軍務局長らは親軍的な一国一党をつくらせようと企図した。これに対して観念右翼や内務官僚は強力新党は幕府的存在になると,国体論をたてにこれに反撃した。6月下旬に近衛が枢密院議長を辞職して新体制運動に挺身すると声明すると,新体制を謳歌する声が世間に広がった。社会大衆党を先頭に各政党は解党にふみきり,わずかに残っていた労働組合なども解散に追い込まれた。陸軍は軍部大臣現役制を武器に米内光政内閣を押し倒した。7月22日に第2次近衛内閣が成立したが,その外交政策は日独伊三国同盟と武力南進を目ざす陸軍の主張に沿うものでしかなかった。8月下旬には新体制準備会が発足したが,そこには諸種の勢力が混在しており,新体制の方向づけをめぐって激論が交わされた。その結果,運動は全国民が加わる大政翼賛会とするが,その中核体である大政翼賛会の構成員は総裁つまり近衛が指名することとなり,大政翼賛会が独自の指導性を発揮する余地が残された。しかし10月の発会式では近衛総裁は〈臣道実践〉だけを強調して失望をかった。
おりから政府では政治刷新を望む国民の期待を背景に,企画院を中心に官吏制度をはじめ各界新体制案を立案し総力戦体制の実現を目ざしていたが,官僚統制の強化を目ざす経済新体制案に対して財界が反撃したのを手はじめに,観念右翼,内務官僚,政党などから〈新体制は赤だ〉という攻撃がわきおこった。内務官僚は新体制運動を利用して部落会,町内会などをつくらせてこれを監督下に入れたが,翼賛会の地方支部についても主導権をにぎり,これを行政補助機関化しようとした。政党は翼賛会違憲の攻撃にのりだし,翌年初めの第76議会では政府からの補助金を大幅に削減した。そのため12月の内閣改造,41年4月の翼賛会改組で風見法相,有馬翼賛会事務総長らは退陣し,観念右翼の巨頭平沼騏一郎が内相となり,内務官僚や観念右翼が翼賛会の要職を占めた。翼賛会は政府の政策に協力するだけの公事結社であるとされ,行政補助機関に転落した。新体制運動のスローガンの〈下意上達〉も国体にそむくとして〈下情上通〉と改められた。新体制運動は,こうして国民組織を基盤とした強力な政治体制をつくりだすことに失敗し,ましてや軍部を統制する力をもつことはできなかったが,これに対する国民の期待を利用し警察の圧力を併用して政党,労働組合などの自主的な組織を解散させ,国民を部落会,町内会などの地域組織や大日本産業報国会,商業報国会などの職域組織に組み込み,生活のすみずみまでも統制下におく道を開いたといえる。
執筆者:今井 清一
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1940年(昭和15)から翌年にかけて行われた新政治体制の創出をめざした運動。第2次大戦のヨーロッパ戦局がドイツ有利に展開していた情勢を背景として,40年6月24日枢密院議長を辞任した近衛文麿は新体制運動に乗りだすと声明した。8月15日の立憲民政党解党を最後に全政党が解散,第2次近衛内閣が各界有力者を集めて8月23日に設置した新体制準備会での議論をへて,10月12日大政翼賛会が結成された。新体制推進派は翼賛会をナチス的な政党とすることをもくろんだが,議会主流や精神右翼は憲法違反として批判し,結局翌年1月に政府は翼賛会の政治性を事実上否定する見解を示し,4月に翼賛会が改組されて運動は挫折した。
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