日本歴史地名大系 「助谷村」の解説 助谷村すけがいむら 栃木県:下都賀郡壬生町助谷村[現在地名]壬生町助谷国谷(くにや)村の北、黒(くろ)川の支流江(え)川右岸に位置し、北東に小林(こばやし)村、西は羽生田(はにゆうだ)村。慶長七年(一六〇二)日根野吉明が壬生城に入り、当村もその領地となる。寛永一六年(一六三九)まで壬生藩領、同年から正保三年(一六四六)まで幕府領、慶安四年(一六五一)から幕末まで壬生藩領であったとみられる。慶安郷帳(東野地誌本)に助貝村とみえ、田六七石余・畑一一五石余。寛文四年(一六六四)の壬生藩領知目録には助谷村とある。明暦元年(一六五五)の検地出目高一九八石余、村高三八一石余とあり、田二五町四反余・畑二六町九反余(元禄八年「村明細帳」粂川芳雄文書)。正徳二年(一七一二)の村明細帳(同文書)によれば、高五二八石余、家数七二・人数三四七、馬四二。 助谷村すけだにむら 鳥取県:東伯郡三朝町助谷村[現在地名]三朝町助谷恩地(おんじ)村の南、竹田(たけだ)川を挟んで西側に位置する。津山往来がほぼ南北に通る。拝領高四五石余。隠岐氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一〇〇石余、竈数一四で、川向うに枝村大島(おおしま)があり、同地より用蔵(ようぞう)越一里で加茂(かも)谷の笏賀(つが)村へ出るなどとある。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高四九石余、高一一三石余、うち畑高六石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by