江戸時代,宿人馬の不足を補充するため宿の近郊農村に指定された助郷。1694年(元禄7)東海道などの助郷役は定助郷と大助郷に区分された。定助郷は1里前後の範囲の村に課されることが多い。宿の常備人馬(100人・100疋)が継立て機能に支障をきたしたり不足すると,定助郷,大助郷の順でこれを補い,定助郷は常時出役の対象とされた。1725年(享保10)主要街道では定助郷と大助郷の区分がなくなり,定助郷にほぼ一本化された。定助郷の範囲も成立当初より拡大され,宿から3里以上遠方の村も機能をはたすことになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…幕府直轄の五街道のうち往来のさかんな東海道,美濃路では,恒常的な助馬助成を特定の村に依存する必要が早くから生じ,1637年(寛永14)には幕府や諸藩がそれぞれの領内宿駅に助馬村を定めている。その後寛文期(1661‐73)に中山道,日光道中をも加え,助馬村の恒常的な制度化としての定(じよう)助(定助郷)を生み,さらにその後定助では不足のときに人馬を補う村を定め,これを大(だい)助と呼んだ。しかし,これらの助郷は支配関係にとらわれ,宿駅近くの村を含まないのが一般的で,また村落はすでに小農中心の村に変容しており,そのため幕府は1694年(元禄7)より助郷制改革を断行した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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