勝浦郡(読み)かつうらぐん

日本歴史地名大系 「勝浦郡」の解説

勝浦郡
かつうらぐん

面積:一七九・四八平方キロ
勝浦かつうら町・上勝かみかつ

現県域の東部中央寄りに位置する。西部に上勝町があり、東部を勝浦町が占める。東部から南部にかけては小松島市・阿南市、北部は徳島市、名東みようどう佐那河内さなごうち村、名西みようざい神山かみやま町、西部は那賀なか木沢きさわ村、南部は同郡の上那賀かみなか町・相生あいおい町・鷲敷わじき町と接する。勝浦川の流域にあたり、北部は中津峰なかつみね(七七三メートル)杖立ついたて(七二四メートル)轆轤ろくろ(九七二・一メートル)あさひヶ丸(一〇一九・五メートル)、西部に雲早くもそう(一四九五・九メートル)高丸たかまる(一四三八・六メートル)などの山嶺が連なっている。これらを水源とする旭川・杉地谷すぎじたに川・梅木谷うめきだに川・たつ川・坂本さかもと川などはいずれも勝浦川に合流して流量を増し、勝浦町の東部で流れを北に変え、徳島市域に入る。

旧勝浦郡域は東部が海に臨み、東部から南部にかけては那賀郡、西部から北部にかけては名方なかた(名西郡・名東郡)に接しており、東部を除けばこの両郡に挟まれた郡域となっている。この郡域は現勝浦郡と、小松島市の北半部、徳島市の南東部(勝浦川右岸流域)にわたる範囲に相当する。郡名の異表記はない。カツラとも読まれた(「延喜式」民部省)

〔原始・古代〕

現郡域では内容が把握されている考古遺跡はない。勝浦川・那賀川・海部かいふ川の流域一帯は六世紀半ば頃から長国造の支配下のクニとして姿を現し、七世紀中頃の孝徳天皇・天智天皇期にこのクニを基盤として評が成立、その新たな地方行政区画はおそらく長評と称されたと推定される。そして大宝令で成立した長郡はこの長評の範囲をそのまま引継いだものと考えられる。「続日本紀」宝亀四年(七七三)五月七日条によれば、勝浦郡領の長費人立は、もと長直氏であったものが天智天皇九年(六七〇)庚午年籍で長費と記載され、のち前郡領の長直救夫が長直に復するように訴えたものの、天平宝字二年(七五八)の編籍でも引続き長費と記されたという。前郡領とはいずれの郡領か明記されていないが、ごく初期の名方郡大領であった粟凡直弟臣と世代的な対比がつくところから救夫は長評の最後の官人(評督)であり、長郡の初代の郡領でもあったとみておきたい。七一〇年代前半の長屋王家木簡に「長郡和社里」「長郡波羅里」と記され、天平七年(七三五)一〇月銘の平城京二条大路跡出土木簡に「阿波国那賀郡波羅郷海部里」とみえ、長郡から那賀郡への郡名の変更が行われている。この改称は和銅六年(七一三)の郡・里名に好字を用いよという律令政府の指示、霊亀元年(七一五)とされる郷里制の施行などに伴って実施されたと思われるが、同時に郡域の分割もなされて、北部を勝浦郡、南部を那賀郡としたものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報