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孝徳天皇 こうとくてんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

孝徳天皇
こうとくてんのう

[生]推古4(596)
[没]白雉5(654).10.10. 摂津
第 36代の天皇 (在位 645~654) 。名は天万豊日尊 (あめよろずとよひのみこと) 。茅渟王 (ちぬのおおきみ) の王子,皇極天皇の弟,敏達天皇の曾孫。母は吉備姫王。初めは軽皇子と称した。皇極4 (645) 年中大兄皇子らが蘇我氏を誅滅したのち,中臣鎌足の意見もあって軽皇子が即位した。天皇は中大兄皇子を皇太子とし,大化と建元し,大化改新の事業を進めた。すなわち大化2 (646) 年正月1日詔を出して,班田収授,租・庸・調の制などを定めた。同年都を飛鳥から摂津難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみや) に移したが,この宮は長安京に模した日本で最初の都城である。間人皇女を立てて皇后とした。陵墓は大阪府南河内郡太子町の大阪磯長陵。

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百科事典マイペディアの解説

孝徳天皇【こうとくてんのう】

飛鳥時代の天皇。舒明(じょめい)天皇の弟の茅渟(ちぬ)王の子。名は軽(かる)皇子。645年即位,654年まで在位。大化改新の事業を行い,645年12月飛鳥から難波長柄豊碕(なにわのながらとよさき)宮(難波宮)に遷都。
→関連項目有間皇子大阪[市]磯長谷難波山口大口費

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

孝徳天皇 こうとくてんのう

597-654 飛鳥(あすか)時代,第36代天皇。在位645-654。
推古天皇5年生まれ。茅渟(ちぬ)王の王子。母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。皇極天皇の同母弟。中大兄(なかのおおえの)皇子を皇太子として,大化(たいか)2年(646)四ヵ条の改新の詔を発し,国家体制の整備に着手した(大化の改新)。晩年は皇太子と意見があわず,白雉(はくち)5年10月10日難波宮で病死。58歳。墓所は大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)(大阪府太子町)。幼称は軽(かるの)皇子。別名は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。
【格言など】鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引出(ひきで)せず吾が飼ふ駒を人見つらむか(「日本書紀」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

孝徳天皇

没年:白雉5.10.10(654.11.24)
生年:生年不詳
いわゆる大化改新時の天皇。幼名は軽皇子,和風諡号を天万豊日天皇という。父は敏達天皇の孫茅渟王,母は欽明天皇の孫吉備姫王で,皇極天皇の同母弟。中大兄(のちの天智天皇)の叔父に当たり,その同母妹間人皇女を皇后とし,阿倍小足媛との間に有間皇子をもうけた。『日本書紀』は645年6月蘇我宗家滅亡(乙巳の変)のあと,皇極天皇の譲りを受けて即位,大化の年号を立て,同年12月都を難波長柄豊碕(大阪市)に遷し,翌2年1月1日「大化の改新の詔」を宣したと記すが,『新唐書』日本伝に「永徽初,其王孝徳即位,改元曰白雉」(永徽1年が650年にあたる)とみえ,また鴨脚本『皇代記』は「大化五年 即位」と記す。大化については,持統9(695)年大化改元とする有力な記録があり,難波遷都も『日本書紀』は難波長柄豊碕宮の完成を白雉2(651)年としており,また改新の詔については『日本書紀』の記事に矛盾があって,その存在自体が疑われている。孝徳天皇の事績については,総じて大化年間(645~649)の記事に疑いが多く,確実なものとしては,評(のちの郡,郷,駅家)の設置(654),白雉改元(650),同4,5年の遣唐使派遣などがある。神道を軽り,儒を好んだという人柄にふさわしく,中国文明志向型の開化主義が顕著である。晩年は中大兄と離反,孤独のうちに難波宮で没した。同年大坂磯長陵(大阪府太子町)に葬られた。<参考文献>原秀三郎『日本古代国家史研究』

(原秀三郎)

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世界大百科事典 第2版の解説

こうとくてんのう【孝徳天皇】

597?‐654(推古5?‐白雉5)
第36代に数えられる天皇。在位645‐654年。名は軽皇子。皇極女帝の同母弟で,父は舒明天皇の弟の茅渟(ちぬ)王,母は欽明天皇の孫の吉備姫王。《日本書紀》や《大織冠伝》には,中臣鎌足が皇室中の人材を求めて天皇に接近し,天皇がこれを厚く待遇した話がみえるが,《上宮聖徳太子伝補闕記》によれば,643年(皇極2)11月に蘇我入鹿山背大兄王を攻め滅ぼしたとき,天皇はその軍に加わっていたという。645年(大化1)6月に甥の中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我氏権力を打倒すると,皇極女帝の譲位をうけて即位し,中大兄皇子を皇太子とし,年号を大化と定め,同年末に都を難波の長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に移した。

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大辞林 第三版の解説

こうとくてんのう【孝徳天皇】

597?~654) 日本書紀で、第三六代天皇(在位645~654)。天万豊日尊あめのよろずとよひのみことの漢風諡号しごう。名は軽皇子かるのおうじ。茅渟王ちぬのおおきみの王子。大化改新に加わり、難波長柄豊碕宮なにわのながらとよさきのみやを都とした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

孝徳天皇
こうとくてんのう
(597―654)

第36代とされる天皇(在位645~654)。名は軽(かる)。和風諡号(しごう)は天万豊日(あめよろずとよひ)天皇。茅渟(ちぬ)王の皇子。母は吉備(きび)姫王。皇極(こうぎょく)天皇の同母弟。即位の翌年正月に大化改新の詔(みことのり)を発し、皇太子中大兄(なかのおおえ)を実権者として改新政治を進めた、というのが従来の見解であった。しかし、改新の詔は、後世に述作された可能性が大きく、その信憑性(しんぴょうせい)が疑われている。また、政権の実権者を中大兄とする点にも問題が残る。むしろ、天皇の執政期の前半の大化期は、品部(しなべ)の廃止、新冠位制の施行などを、新政権内部の不統一を押して行った。そして、新造した難波長柄豊碕(なにわながらのとよさき)宮に移った後半の白雉(はくち)期には、新しい左右大臣を任命し、政治を主導した。しかし、653年(白雉4)には間人(はしひと)皇后、中大兄らは大和(やまと)に去って政権は分裂し、翌年10月、失意のうちに難波宮で没した。陵墓は大阪府南河内郡太子町山田の磯長(しなが)陵。[門脇二]

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