改訂新版 世界大百科事典 「造東大寺司」の意味・わかりやすい解説
造東大寺司 (ぞうとうだいじし)
東大寺の造営と付属物の製作,写経事業のために設けられた令外の律令官司,官営工房で,太政官に直轄された。金光明寺造物所が発展して748年(天平20)7月ごろ成立し,789年(延暦8)停廃された。初期には光明皇后の皇后宮職ととくに深い関係にあった。四等官は最も整備された場合,長官・次官が各1人,判官・主典は各4人で,755年(天平勝宝7)はじめて正式の長官が任命された。補任された官人の位階は長官は四位,次官は五位,判官は五位・六位が多く,主典は六~八位で,官位相当は省に準ずる。この人事は藤原仲麻呂の権勢の消長と関連し,756年から翌年には反仲麻呂派が更迭され,763年(天平宝字7)ころから今度は親仲麻呂勢力が一掃された。このほか技術官人として大工,少工,さらに史生が10人ほどいたらしい。造営の財源は施入物のほかはおもに東大寺の封戸であったらしいが,760年に造営料は1000戸とされた。内部は造仏所,鋳所,木工所,造瓦所,写経所などに組織されており,判官・主典・史生は各〈所〉の別当として,事務官人の将領,雑工,非技術的労働者の仕丁(しちよう)・雇夫等を率いて造営・製作を分担した。雑工には木工,鋳工,鉄工,画工が多く,専属の官人である司工と雇傭される雇工があり,司工には長上工と番上工があるが,雇工が少なくない。仕丁・雇夫は雑工の補助労働,雑役に従事したが,諸国から徴発される仕丁より雇夫が多かったらしい。雇工・雇夫の多くは強制を伴わない和雇であった(雇役(こえき))。789年に造営事業の一応の完了と財政窮迫のために停廃されたが,東大寺の官営工房は著しく規模を縮小しながらも造東大寺所の名称で存続した。また,初期荘園と呼ばれる東大寺領も当初は造東大寺司の支配が強かったが,仲麻呂の没落,僧侶勢力の伸張により,763,764年ごろから経営の主体が東大寺三綱へ移行した。
→造寺司 →東大寺
執筆者:西山 良平
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報