中国,漢代から唐代にいたる時代に行われた地方末端の行政単位。漢代では地方を郡県に分けたが,その県の下には古来からの邑の伝統をもつ多くの自然集落が包含された。集落はいずれも城郭で囲まれ,その一つ一つが亭であり,10亭ちかく集まると,その最大のものが郷=都亭となり,他の亭を従えた。そしていくつかの郷が集まると,その最大のものが県=都郷となり,他の郷を従えた。郷には三老・嗇夫(しよくふ)・游徼(ゆうきよう)がいて,三老は祭祀や自治的諸慣習の指導者であり,嗇夫が裁判と徴税を,游徼が警察事務をつかさどり,亭には亭長がおかれた。これら自然集落の郷や亭の城内はいくつかの里に区画され,それぞれの里は約100戸からなり,里正や父老がいて税役の徴収に責任をおわされ,郷の嗇夫の監察をうけた。郷は自治的集落であった点で,国家権力の末端機構たる県と性格を異にしていた。しかし後漢末以後に,北方民族が中国内地に移住し,また屯田制が普及するにつれて,城郭の外に出て散居する住民がふえるに至り,新しく村(そん)という自然集落が出現した。村の大きさは100戸以内が普通であって,村司に統率された。つまり,三国から六朝時代にかけては,城郭の内に住む者と村落に住む者との2形態に分かれてきたのである。
北朝にあっては,人為的な区分に関して,これまでの郷里制とは異なり,組織を3段にしてそれぞれに長をおく,いわゆる三長制が施行されたが,その間に,いつのほどにか城郭内の区画であった里を坊と呼ぶようになっていた。つまり里が公称であったのに対し,民間ではむしろ坊と呼ぶことが多かったらしく,隋をへて唐にいたり,ついに坊をもって正式の称呼と定めた。それとともに,里というのを,100戸を単位とする人為的な集団の名としたのである。唐の根本法典たる令には,県以下の集落区分について〈百戸を里となし,五里を郷となす。両京および州県の郭内を分かちて坊となし,郊外を村となす。里および村と坊にみな正あり,もって督察をつかさどる。--里正は兼ねて農桑を課植し,賦役を催駆す--。四家を隣となし,五家を保となす。保に長あり,もってあい禁約す〉と規定されている。つまり人為的に積み上げた郷-里-保の集落区分と,ある家の東西南北の四隣にいる者に連帯責任をおわせ,県以上の城郭内では坊と呼ばれた区画ごとか,村ごとを一つの単位とする坊-隣,村-隣の自然区分とが重複していた。
そして人民把握の基本台帳であった戸籍と計帳は,郷里制の方に従っていたのであり,里正こそがそのかなめであった。唐代の郷里制は人為区分であって漢代の自然集落の区分であった郷里制とはまったく異なるのであり,唐代の坊-隣の系統こそ,実質的に漢代の郷里制を継承していたと言えよう。唐の後半以後,租庸調制が崩れて両税法が施行されるようになると,1郷500戸,1里100戸の制は有名無実となり,五代になると,村が直接に郷と結びついて郷村(きようそん)制と呼ばれる行政単位に代わっていった。
執筆者:礪波 護
律令制における地方統治制度。京師以外の地方諸国を国・郡(大宝律令以前は評)・里の行政組織をもって統治し,1里を50戸で構成する制度は,遅くとも浄御原令施行のころにはすでに実施されていたが,715年(霊亀1)の式により,従来の里を郷と改め,その郷の下部単位として新しく1郷に2~3の里を設け,郷には郷長,里には里正を任ずることとした。これを郷里制と呼ぶ。里を構成する戸数には1郷=50戸のごとき定数はなく,里は房戸(ぼうこ)を基礎単位とした(郷戸・房戸)。郷里制施行の目的は律令制地方統治の強化にあったと考えられるが,現存史料の示すところでは,739年(天平11)末ごろに行政簡素化政策の一環として,郷里制の里は廃止され,国・郡・郷の統治組織に復したらしい。そのことは郷里制の施行に際してつぎの造籍が1年延期されたと同じように,廃止の場合にも,739年が籍年に当たるにもかかわらず,造籍が翌年に延期されたことからも知られ,こうした六年一造の原則の乱れはほかにこの前後に例をみない。
執筆者:岸 俊男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
8世紀前半の地方行政区画。大宝律令(たいほうりつりょう)によって定められた国郡里制を、唐の州県郷里制に倣って国郡郷里制としたもの。『出雲国風土記(いずものくにふどき)』に「依霊亀元年式。改里為郷」とあり、715年(霊亀1)に里(1里=50戸)を郷とし、郷を新たに2、3の里に分割し、郷長、里正(りせい)を置いた。郷里制施行は、郷戸(ごうこ)の房戸(ぼうこ)への分割と関連し、郷戸は郷の、房戸は里の構成単位ともされる。
郷里制のねらいは、行政単位の単なる細分化か、あるいは、自然村落を郷里制の里として編成しようとしたものかなどは別として、農民把握の強化にあったことは明らかである。郷里制も、739~740年(天平11~12)には廃止され、国郡郷制となった。
[大町 健]
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8世紀に実施された地方行政組織。大宝令施行によって国郡里制が開始されたが,人口増加と耕地面積の拡大に対応して地方行政を徹底させるため,717年の霊亀3年式(従来知られた霊亀元年式は3年の誤りか)により,それまでの里を郷と改称してその下に新たに里が組織された。これを郷里制といい,1郷を2~3の里にわけて郷長(ごうちょう)・里正(りせい)をおいた。1郷は50の郷戸(ごうこ)から構成され,郷戸の内部にさらに規模の小さな房戸(ぼうこ)が組織されて,実際の家族単位により近い形態での人民把握がめざされた。しかし郷・里は自然村落にとらわれずに編成された人為的組織であり,実質的には里の行政上の意義は小さく,740年(天平12)頃には里と房戸が廃止され,国郡郷制に改められた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…ついで改革の対象を地方行政の場に求め,長い分裂期のなかで肥大複雑化して中央集権をはばんでいた州郡県制に鋭いメスを入れ,郡を廃止して州県制へ機構を簡素化することを皮切りに,地方官に対する辟召(へきしよう)制(現地任用制)を廃止して中央任命制の採用,地方官の在職年限や服務に関する厳格な規定の制定などを一挙に実現させた。こうしたうえで,末端の民衆社会の掌握に力を注ぎ,貌閲策(首実検)などによる戸籍調査,北魏以来続いた三長制を改めた郷里制(きようりせい)(500戸の郷,100戸の里の組織)による郷村再編成を強行し,他方,飢饉に対する相互扶助の機関としての義倉(社倉)を設置した。この結果,隋代は戸口の把握が進み,およそ戸数900万,口数4600万という,唐の盛時をもしのぐほどに至ったのである。…
※「郷里制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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