勢多橋(読み)せたのはし

日本歴史地名大系 「勢多橋」の解説

勢多橋
せたのはし

瀬田唐せたのから橋として名高い。文献上は勢多橋として多出するが、瀬田橋・世田橋の異記のほか、韓橋・勢多長橋の異称などもみえる。ただし延喜二年(九〇二)七月五日の太政官符(類聚三代格)にある「韓橋」は山城国にあった橋と考えられる。旧滋賀郡粟津あわづと旧栗太くりた勢多橋本せたはしもとを結ぶが、近代以前の歴史時代には畿内中央部と東日本を結ぶ(または隔絶する)重要な橋で、幾度となく天下の趨勢を左右するような合戦の場となった。「日本書紀」天武天皇元年(六七三)七月の壬申の乱の記事に初めてその名が登場して以来、藤原仲麻呂の乱、源平の争乱、承久の乱などで重要な役割を果し、文芸面でも平安期の紀行文学にみえ、一三世紀初めには歌枕として広く知られ(八雲御抄)、近世には近江を代表する名所として絵画類にたびたび描かれる。

〔遺構〕

江戸時代は現在とほぼ同地点に架けられ、構造図や架替えの記録などが残っているが、中世以前は位置・構造などほとんどわかっていなかった。昭和六二年(一九八七)から実施された瀬田川河床の発掘調査で初めて古代の遺構が発見され、唐橋遺跡として多くの新事実が明らかになった。発掘調査地点は現在地より約八〇メートル下流で、東岸より一三―二八メートル間を鋼矢板で区切り、内部を排水し陸地化して発掘が行われた。遺構は現水面下約三・五メートルの地点を基盤とし、丸太材を東西および南北方向に整然と並べ、その上に橋脚台材を扁平な六角形に組み、これらを多量の人頭大の割石で押えた構造のもので、東西約九メートル×南北約一五メートル×高さ約一・二メートルの規模をもっていた。橋脚を建て上げるための台材は四本検出され、材質は不明だが、幅約四五センチ×長さ五―六メートル×厚さ約四五センチのもので、うち二材には中心付近に直径二〇センチ×深さ五―一〇センチの浅い円孔(未貫通)がうがたれていた。岸寄りの部材が欠失しているため全体の形態は明確ではないが、六角形の橋脚台の可能性が強い。橋脚台の上流部に柄穴をうがった礎石が一個置かれており、橋脚を補強するための斜材を据えるためのものかといわれている。この橋脚台は多量の石材で埋められて固定されているが、石材はいずれも角ばった山石で、石材どうしが強固に組合さるように配慮されている。また基礎の下流の流心側のコーナーには八本の杭を立てた痕跡があり、橋脚の基礎構造物の流失を防止するための施設と考えられている。これと同様の遺構が西側にも一ヵ所認められ、これらから復元して最大幅八メートル前後、橋脚間約一五メートルの大規模な橋が想定できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報