改訂新版 世界大百科事典 「勢多」の意味・わかりやすい解説
勢多 (せた)
現在の大津市瀬田付近をさし,《和名抄》に栗本(くるもと)郡勢多郷がある。古く《日本書紀》は天武1年(672)7月22日,壬申の乱での瀬田の戦いを記し,瀬田橋もすでにあった。勢田,世多とも記される。古代の近江国府,勢多駅の所在地であり,対岸の古市郷(現,大津市膳所,石山付近)とともに同国の中枢部であった。琵琶湖が宇治(瀬田)川に流出する水陸の要衝であり,壬申の乱や藤原仲麻呂の乱にも戦略的拠点であったように,早くから交通の中心地であった。《延喜式》による駅馬数は30疋で近江最大,全国的にも最大規模の駅家で,東海,東山2道の分岐点に近く,804年(延暦23)山科駅廃止後は同駅馬が勢多駅に吸収されている。瀬田橋は律令国家が橋の修復維持に毎年1万束の稲を充当した。平安後期に荒廃したが鎌倉前期には復架され,《拾芥抄》は瀬田唐橋を山崎,宇治と並ぶ三名橋とする。室町幕府は有事に際し山門・寺門の衆徒らに当橋の警固を命じた。荘園も奈良朝に開田され,造東大寺司領の勢多荘は,田上山から勢田津に集められる材木調達用途にあてられており,761年(天平宝字5)の石山寺造営にも同じ機能を果たした。
一方漁労民を贄人(にえびと)として組織化した内膳司領勢多御厨では,フナやフナずしを朝廷に貢進した。瀬田川東岸の,唐橋近在は中世には橋本と呼ばれ,その地の贄人は中世では橋本供御人として内蔵寮の被官となり,日次御贄(ひなみのみにえ)を御厨子所(みずしどころ)に,神供を内侍所に,日次供御コイ等を内膳司に備進した。このように橋本御厨は,内蔵寮頭を世襲した山科中納言家の荘園化していく。鎌倉期になると,対岸の粟津と一体化して粟津橋本供御人と称され,京都の六角町に進出して常設店舗を構え,魚介類の販売に従事した。やがて彼らは山科家と御厨子所に座役と称する銭貨を納入するほかは純然たる魚介商人と化し,室町時代になると魚介のほか塩,塩合物,日用雑貨の販売にまで業務を拡大し,幕府,朝廷からは専売権と自由通行権を獲得して京都の商業界を牛耳る勢力にまで発展したが,16世紀後半,山科家の没落とともに特権を失って解体した。
執筆者:今谷 明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報