伊勢神宮(読み)いせじんぐう

精選版 日本国語大辞典 「伊勢神宮」の意味・読み・例文・類語

いせ‐じんぐう【伊勢神宮】

三重県伊勢市にある皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の総称。神体は八咫(やたの)鏡。明治以後国家神道の中心として国により維持されてきたが、昭和二一年(一九四六宗教法人。伊勢大廟。伊勢大神宮。大神宮。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「伊勢神宮」の意味・読み・例文・類語

いせ‐じんぐう【伊勢神宮】

三重県伊勢市にある皇大神宮内宮ないくう)と豊受とようけ大神宮外宮げくう)の総称。内宮は皇祖神である天照大神あまてらすおおみかみを祭り、神体は三種の神器の一、八咫鏡やたのかがみ。外宮の祭神は農業などをつかさどる豊受大神白木造りで、20年ごとに遷宮を伴う改築がある。明治以後国家神道の中心として国により維持されたが、昭和21年(1946)宗教法人となった。社殿の様式は神明造り。伊勢大神宮。伊勢大廟。二所大神宮。神宮。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「伊勢神宮」の解説

伊勢神宮
いせじんぐう

[現在地名]伊勢市館町・豊川町

伊勢神宮とは、宇治皇大こうたい神宮(内宮)と山田の豊受とようけ大神宮(外宮)の二宮の称で、二所大神宮とも称した。また他の諸社を超越した比類なきものとして、単に「大神宮」「神宮」とも称された。内宮を伊須受宮いすずのみや渡遇宮わたらいのみや・天照皇大神宮などとも称し、外宮を豊受宮・止由気宮・度会宮とも称した。同時に上記二宮とそれに所属する一四別宮と一〇九社に及ぶ摂社・末社・所管社を含めた宮社組織の総称でもある。

祭神は、内宮が天照大神一座、相殿神二座(天手力男神・万幡豊秋津姫命)で、外宮が豊受大神一座、相殿神三座(天津彦彦火瓊瓊杵尊・天児屋根命・太玉命)とされている。

高倉たかくら山を背にして八九ヘクタールに及ぶ外宮神域が広がる。第一鳥居口御橋を渡り第一鳥居・第二鳥居を通り外宮社殿に至る間に、神官の参籠所である斎館、行在所(斎館構内にあり天皇参拝時の頓宮)・神楽殿とこれに接続する大麻授与所、遷宮に関する諸祭・年中恒例の両儀の諸式などを行う五丈殿、勅使従者の直会饗膳に用いる九丈殿、四至神がある。社殿は外から内へ板垣・外玉垣・内玉垣・瑞玉垣と四重の垣に囲まれて配置されている。板垣の内に南北二つの宿衛屋があり、北宿衛屋の両側に外幣げへい殿(三后・皇太子の幣帛および古神宝を納める)御饌みけ殿がある。御饌殿は外宮にのみあり、御饌供進のためのものである。ここのみ板校倉造が残っているが、古くは他のすべてがこの板校倉の神明造であったとされる。外玉垣の内に四丈殿(もと斎内親王侍殿と称する。正遷宮の中絶とともに廃絶、元禄五年徳川家綱の母の寄付により再興)がある。内玉垣の内に蕃垣御門(もとは内宮のみの門であったものが平安中期頃には外宮にも付された)がある。正殿は瑞垣に囲まれて南面する。檜の素木造である。その前方(南)東西に北面して、朝廷よりの幣帛を納める東宝殿、古神宝・御鞍などを納める西宝殿がある。このように配置された社殿の敷地に隣接して遷宮のための古殿地がある。社殿の北側に大御饌調備をする忌火屋いんびや殿、御酒みさか殿・祓所・御厩があり、社殿の南方高倉山の中腹に外宮別宮である風宮かぜのみや土宮つちのみや多賀宮たかのみやが祀られている。

外宮から南東約五キロ、神路かみじ山の麓に九八ヘクタールに及ぶ内宮神域が広がる。五十鈴川に架けられた宇治橋を渡り、第一鳥居御橋・第一鳥居へ進むとすぐ先に五十鈴川のほとりの御手洗みたらし場がある。第二鳥居を通り内宮社殿に至る。この間に斎館・行在所・内御厩うちのみうまや・外御厩・神楽殿・大麻授与所・御酒殿、由貴の大御饌に供進する御贄を納める由貴御倉ゆきのみくら、五丈殿・四至神・忌火屋殿・祓所・御稲御倉(天正年間の再興でここだけが復された)・外幣殿が立並んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊勢神宮」の意味・わかりやすい解説

伊勢神宮
いせじんぐう

三重県伊勢市に鎮座。古くは伊勢太神宮(だいじんぐう)、二所皇太神宮(にしょこうたいじんぐう)などと記され、現在も伊勢神宮、また「お伊勢さん」と称されるが、正式にはただ神宮という。ほかに明治神宮、橿原(かしはら)神宮、熱田(あつた)神宮などと神宮号をつけた神社があるが、それらと社格が異なり、神宮は古来、最高の特別格の宮居とされている。神宮は、皇大(こうたい)神宮(内宮(ないくう))と豊受(とようけ)大神宮(外宮(げくう))の二所の正宮(しょうぐう)と、それに付属する宮社よりなっている。

[鎌田純一]

鎮座由緒

皇大神宮は伊勢市宇治館(うじたち)町、五十鈴(いすず)川の川上にあり、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を祀(まつ)り、相殿(あいどの)に天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)を祀る。古くはただ太神宮、また伊須受能宮(いすずのみや)などともよばれた。この皇大神宮の鎮座由緒については、『古事記』『日本書紀』によると、天孫降臨にあたって、天照坐皇大御神が八咫鏡(やたのかがみ)を授け、「この宝鏡を視(み)まさんこと、まさに吾(われ)を視るがごとくすべし。ともに床を同じくし殿をともにして、斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」といわれたことを受け、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の日向(ひゅうが)三代を経て、神武(じんむ)天皇より崇神(すじん)天皇の代まで同床共殿、すなわち皇居の中にともに祀っていた。しかし、崇神天皇はそれを畏(おそ)れ多いこととして別殿で祀ることとし、初め大和(やまと)(奈良県)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀り、さらによい宮処(みやどころ)を求めて伊賀(三重県中西部)、近江(おうみ)(滋賀県)、美濃(みの)(岐阜県南部)、尾張(おわり)国(愛知県)を経て、垂仁(すいにん)天皇25年(一説に26年、神宮では26年説をとる)現在地に奉斎したと伝承する。

 豊受大神宮は伊勢市豊川町、山田原(やまだがはら)にあり、天照坐皇大御神の御饌都神(みけつかみ)、つまり食物の神である豊受大神(とようけおおみかみ)を祀り、相殿に御伴神(みとものかみ)3座を祀る。豊受宮、度会宮(わたらいのみや)などともよばれた。この豊受大神宮の鎮座については記紀に記述はない。804年(延暦23)撰(せん)の『止由気宮(とゆけぐう)儀式帳』がそれを記す最古の書であるが、それによると、天照坐皇大御神の神託により、雄略(ゆうりゃく)天皇22年に丹波(たんば)国(京都府北部)比治(ひじ)の真奈井(まない)の原より現在地に迎え祀り、この宮に御饌殿(みけでん)をつくり、天照坐皇大御神に日別(ひごと)朝夕の大御饌(おおみけ)を奉ることとしたという。

[鎌田純一]

社殿

神宮社殿に関する記録の最古のものは奈良時代の正倉院文書(もんじょ)にみられるが、形式、規模ともに現代と大差なく、古くから唯一神明造(ゆいつしんめいづくり)であったことが知られる。すなわち、切妻造(きりづまづくり)、平入(ひらいり)の萱葺(かやぶ)きで、柱は丸柱の掘立(ほった)て式、素木(しらき)造で、屋根に千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)がある。『太神宮諸雑事記(しょぞうじき)』に、この社殿は、天武(てんむ)天皇のとき(7世紀)、20年ごとに建て替えられる式年遷宮(しきねんせんぐう)の制度が定められたとあり、以後690年(持統天皇4)に皇大神宮の遷宮、692年に豊受大神宮の遷宮が行われ、戦国時代に乱れたこともあったが、現代にその制度が伝えられている。両正宮の正殿は南面し、その両側に東宝殿、西宝殿(内宮は正殿の後方、外宮は前方)がある。それを囲んで瑞垣(みずがき)、内玉垣(うちたまがき)、外玉垣(とのたまがき)、板垣(いたがき)の四重の御垣(みかき)を巡らす。外宮には板垣内、東北隅に御饌殿がある。

[鎌田純一]

付属社・神域

皇大神宮、豊受大神宮のそれぞれに付属する宮社には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)がある。別宮は付属の宮社のなかでも重んじられており、皇大神宮に荒祭宮(あらまつりのみや)、月読(つきよみ)宮、月読荒御魂(あらみたま)宮、伊佐奈岐(いざなぎ)宮、伊佐奈弥(いざなみ)宮、滝原(たきはら)宮、滝原竝(ならび)宮、伊雑(いざわ)宮、風日祈(かざひのみ)宮、倭姫(やまとひめ)宮の10社があり、豊受大神宮に多賀(たか)宮、土(つち)宮、月夜見(つきよみ)宮、風(かぜ)宮の4社がある。摂社、末社は、延喜(えんぎ)の制で官社とされていた社を摂社、そうでない社を末社とした。皇大神宮には摂社27社・33座、末社16社・16座があり、豊受大神宮には摂社16社・17座、末社8社・8座がある。所管社は皇大神宮に30社、豊受大神宮に4社、別宮の滝原宮に3社、伊雑宮に5社ある。これらの付属社は伊勢、松阪、鳥羽(とば)、志摩(しま)の4市、三重県下の度会(わたらい)、多気(たき)の2郡にわたって鎮座している。

 神宮の神域は、現在、豊受大神宮が約89.4ヘクタール。皇大神宮は正殿周辺の約95ヘクタールのほかに、宮域林5400ヘクタールを有しているが、古くは度会、多気、飯野(いいの)郡を神三郡(じんさんぐん)と称して神領としていた。また、神饌(しんせん)として供える御料(ごりょう)も、古儀を重んじ清浄を期して、御料米(ごりょうまい)は神田(しんでん)(伊勢市楠部(くすべ)町)、塩は御塩浜(みしおはま)、御塩殿(伊勢市二見町)、野菜や果物は御園(みその)(伊勢市二見町)、アワビなど海産物は御料鰒(ごりょうあわび)調製所(鳥羽市国崎(くざき))のように、およそその生産地を限定している。

[鎌田純一]

神職・祭儀

神宮の奉仕者として、もと斎王(さいおう)、祭主(さいしゅ)、宮司(ぐうじ)、禰宜(ねぎ)、内人(うちんど)、物忌(ものいみ)らの職制があった。斎王は、歴代天皇がその即位後、規定により皇女また女王を卜定(ぼくじょう)し奉仕させることとなっていて、その制は後醍醐(ごだいご)天皇の代まで続けられた。また律令(りつりょう)体制が崩れるとともに、祭主、宮司は中臣(なかとみ)氏の世襲となり、禰宜は、皇大神宮は荒木田(あらきだ)一族が、豊受大神宮は度会一族が古くから就任することとなっていたが、1871年(明治4)すべてその世襲制を廃した。その後、改めて祭主には皇族または公爵がつくことになり、以下、大宮司、少宮司、禰宜、権(ごん)禰宜などの職制が設けられた。1945年(昭和20)以後は国家管理を離れ宗教法人となったが、およそ同様の職制を踏襲している。

 祭儀には、20年ごとの式年遷宮祭のほか、恒例式として、10月17日を中心とする神嘗祭(かんなめさい)、6月と12月の各17日を中心に行われる月次祭(つきなみさい)(以上を三節祭(さんせつさい)という)、2月17日の祈年(きねん)祭、5月14日の風日祈(かざひのみ)祭、5月と10月の各14日の神御衣(かんみそ)祭などがあり、いずれも古式にのっとり行われている。内宮と外宮との祭祀(さいし)や参拝の順序は古来、外宮を先とするのが習わしである。

 神宮の事務全般をつかさどる機関に神宮司庁がある。なお神宮の付属施設として神宮文庫、神宮徴古館(ちょうこかん)、農業館があり、神宮関係の資料、神宝などを公開している。

[鎌田純一]

伊勢神宮領

古代律令制下の伊勢神宮領として、神戸(かんべ)と神田(かみた)の2種があった。神戸は神社に献ぜられた封戸(ふこ)の意味で、伊勢神宮については、大和国、伊賀国、伊勢国、志摩国、尾張国、参河(みかわ)国、遠江(とおとうみ)国など伊勢国を中心として東海地方に展開し、大同(だいどう)元年(806)には1130戸が認められた。また、神田は祭祀料田・職掌人給田であって神宮近辺に集中し、延喜年間(901~923)に36町1段を数えた。律令制の解体とともに、これら神戸・神田などは、祭主・宮司一族大中臣(おおなかとみ)氏の所領としての性格を強めるに至った。なお、伊勢国13郡のうち、神宮膝下(しっか)の度会、多気2郡は早く神郡となっていたが、9世紀末から11世紀初頭にかけて、飯野(いいの)、員弁(いなべ)、三重(みえ)、安濃(あの)、朝明(あさけ)の5郡が神郡となり、さらに1185年(文治1)には飯高(いいたか)郡が加わって、ここに神宮直轄の「神八郡(じんはちぐん)」が形成された。11~12世紀にかけて、内宮・外宮の禰宜・権禰宜たる荒木田氏、度会氏一族を中心に、御厨(みくりや)・御園(みその)が形成され、中世伊勢神宮領の中核となった。御厨は魚貝類の貢進、御園は畠地(はたち)生産物の貢進が本来の役割であったが、中世的土地領有として同質化していった。地域的には、伊勢、志摩両国にもっとも濃密に分布し、海上交通を通じて尾張、参河、遠江の3国、さらに東海道・東山道諸国の海岸部および河川流域に設置され、のち御師(おし)の活動に伴って全国に広がった。中世の職掌人給田として前記の神田のほか戸田があり、さらに祭祀料の直営田として常供田があった。鎌倉末・南北朝期には、在地諸勢力の台頭によって御厨・御園も徐々に衰退し、御師による神宮信仰と参詣(さんけい)の勧誘、これによる諸種の収入に経済基盤は転換していった。度会神道の大成も、この信仰勧誘という現実的必要を背景としたものであった。室町期には、伊勢国は北畠(きたばたけ)氏の分国となり、1583年(天正11)北畠信雄(のぶかつ)より2500貫、1594年(文禄3)のいわゆる文禄(ぶんろく)検地ののち豊臣(とよとみ)秀吉より4600余石を与えられ、江戸時代になって6200石が幕府朱印地として認定された。

[棚橋光男]

『神宮司庁編・刊『大神宮叢書』全16巻(1932~1957)』『大西源一著『大神宮史要』(1960・平凡社)』『桜井勝之進著『伊勢神宮』(1969・学生社)』『福山敏男他著『神宮』(1975・小学館)』『倉田康夫著『条里制と荘園』(1976・東京堂出版)』『棚橋光男著『中世成立期の法と国家』(1983・塙書房)』『石川梵著『伊勢神宮――遷宮とその秘儀』(1993・朝日新聞社)』『田村円澄著『伊勢神宮の成立』(1996・吉川弘文館)』『林一馬著『伊勢神宮・大嘗宮建築史論』(2001・中央公論美術出版)』『三好和義・岡野弘彦他著『本の古社 伊勢神宮』(2003・淡交社)』『平泉隆房著『中世伊勢神宮史の研究』(2006・吉川弘文館)』『川添登著『伊勢神宮――森と平和の神殿』(2007・筑摩書房)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「伊勢神宮」の意味・わかりやすい解説

伊勢神宮【いせじんぐう】

三重県伊勢市に鎮座。皇大神宮(内宮(ないくう))と豊受(とようけ)大神宮(外宮(げくう))とからなり,合わせて〈神宮〉という。皇大神宮には皇祖神である天照大神を,豊受大神宮には五穀の神である豊受大神をまつる。記紀によれば,皇大神宮は垂仁天皇のときに,豊受大神宮は雄略天皇のときに鎮座と伝えるが,初め伊勢の地方神であった伊勢神宮が,所伝より後世に皇祖神となったとみられる。天武天皇のときに式年造替の制を定め,奈良朝以来これを守って20年ごとに建て替えているので,社殿は古来の形式がよく伝えられている。正殿を中心とし,これに二つの宝殿が付属し,これらを瑞垣(みずがき),一の玉垣,二の玉垣,板垣で囲む。正殿は切妻造,平入り,白木を用いたもので,神明造と呼ばれる。神宮の祠官は斎宮を最高に(後醍醐天皇のとき廃止),祭主は藤波,宮司は河辺,内宮禰宜(ねぎ)は荒木田,外宮禰宜は度会(わたらい)の各家が世襲した。維新後神宮司庁を設け,大・少宮司以下諸職を置いた。祭祀(さいし)としては神嘗(かんなめ)祭(例大祭で,10月16,17日,勅使参向)を最重儀とし,月次(つきなみ)祭(6月,12月)と合わせて三節祭と呼ぶ。ほかに祈年祭(2月),新嘗(にいなめ)祭(11月,勅使参向),神御衣(かんみそ)祭(5月,10月)などがある。2013年に第62回の式年遷宮が行われた。→伊勢参りお蔭参り伊勢神道
→関連項目足代弘訓足羽荒木田氏荒木田守武伊弉諾尊・伊弉冉尊五十鈴川伊勢[市]伊勢暦伊勢路伊勢志摩国立公園伊勢商人伊勢新名所歌合絵巻伊勢国伊勢派伊雑宮宇治大河土御厨(大河戸御厨)大国荘大野荘(石川)大庭御厨大湊(三重)御師小山荘葛西御厨柏木御厨春日大社蒲御厨熊野街道慶光院皇学館大学国家神道籠神社斎戒【さる】田彦大神三社託宣神祇志料神明社政教分離相馬御厨蘇原御厨大麻玉垣中河御厨八幡信仰火鑽臼二見[町]二見御厨真継家三重[県]宮川役夫工米山田山田奉行両部神道度会氏

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「伊勢神宮」の意味・わかりやすい解説

伊勢神宮 (いせじんぐう)

三重県伊勢市にある皇大神宮と豊受(とゆけ)大神宮の総称。前者を内宮(ないくう),後者を外宮(げくう)といい,両宮を併せて伊勢大神宮,大神宮,二所大神宮などとも呼ばれたが,現在では,神宮を正式の名とし,一般に伊勢神宮と呼ばれている。内宮は天照坐皇大御神,その神体として八咫(やた)鏡を祭り,天手力男(たぢからお)命と,瓊瓊杵(ににぎ)尊の母にあたる万幡(よろずはた)豊秋津姫命を合祀し,別宮10社,摂社27,末社16,所管社30などを併せている。《日本書紀》によると,崇神天皇のとき,それまで皇居の中に祭られていた八咫鏡を,その神威を恐れて大和の笠縫邑に移すこととしたが,次の垂仁天皇の代に,皇女倭姫(やまとひめ)命を大神につけ,鎮座にふさわしい土地を求めさせた。倭姫命は近江,美濃などを巡歴した後,伊勢国の五十鈴(いすず)川上に至り,そこに宮を建てたのが内宮のおこりであるという。他方,外宮は,《止由気(とゆけ)宮儀式帳》(《延暦儀式帳》)などによると,雄略天皇の代に,皇大神宮の神饌を供進する神として豊受大御神を,丹波国与謝郡比沼(治)真奈井原から迎え,山田原の宮に祭ったことにはじまるという。外宮は内宮の北西約4kmの地にあり,御伴神の3神を合祀し,別宮4社,摂社16,末社8,所管社4を併せてなり立っている。大和朝廷の祖神を祭る伊勢神宮が,大和から離れた伊勢にある理由は,海上に昇る太陽を祭るにふさわしい土地であるという見方や,大和朝廷の東国進出の拠点がここに置かれたとする見方など,種々の推測があるが明らかではない。

 神宮の神殿は一般に神明造と呼ばれる平入り切妻高床式の殿舎で,出雲大社の大社造とともに,神殿建築の最も古い形を伝えるものとされている。この古式の殿舎は,天武天皇のときに20年ごとに建て替えることが定められ,持統天皇のときに第1回の式年遷宮が行われて以来,1973年の遷宮まで60回に及んでいる。遷宮のために神宮の神殿には隣接する二つの用地があり,交互に一方の敷地に神殿が建てられる。

神宮の神官の最高位にあるのは斎王(斎宮)で,天皇の皇女が任ぜられて伊勢に赴いたが,後醍醐天皇以後は廃絶した。ついで,祭主,大宮司,少宮司,禰宜(ねぎ)があったが,神宮の実務を掌握していたのは禰宜で,内宮は荒木田氏,外宮は度会(わたらい)氏が世襲した。両宮とも禰宜の下に,大内人,物忌,物忌父,小内人などの神官があった。神宮の祭祀の中で最大のものは,20年に1度の遷宮祭であるが,例年の祭りで重要なものには,神嘗(かんなめ)祭をはじめとして,祈年祭,新嘗(にいなめ)祭,6月と12月の月次(つきなみ)祭,5月と10月の神衣(かんみそ)祭などがある。神宮の神事には古式が守り伝えられているが,毎日朝夕に供進される御饌(みけ)を,火鑽(ひきり)具でとった火で調理するのはその例である。

神宮の経済は,古代では封戸と神田によって支えられていたが,その多くは伊勢国の度会,多気(たけ)の2郡にあったので,両郡を神郡といい,897年(寛平9)に飯野郡が寄進されると,神三郡と呼んだ。10世紀以降,律令制の解体がはじまると,神宮にも新しい所領が加えられたが,神宮の荘園はとくに御厨(みくりや),御薗(みその)と呼ばれた。しかし,神宮の所領では土地の掌握が弱いことが多かったので,鎌倉時代半ば以降には在地領主に押領されることが多く,祈禱や奉幣の取りつぎをして収入を得る神官や御師(おし)があらわれた。古来,神宮は特別な神社として一般庶民の参詣を認めなかったが,室町時代以降庶民の参詣がさかんになり,御師の活動も活発になり,門前町が発達した。豊臣秀吉は神宮の特殊性を尊重し,神宮の土地に対しては検地を免除したが,その方針は江戸幕府に受けつがれ,1617年(元和3)徳川秀忠の朱印状では3540石の神領が認められた。

明治時代に入って,神道国教化の政策が進められると,神宮はその中核としてきわめて重要な位置に置かれることになった。1871年(明治4),政府は神宮の諸官職の世襲制を廃止して,新しく祭主以下の職を定め,神宮司庁を設置した。96年の勅令によって整えられた神宮司庁の制度では,祭主は親任官で,皇族または公爵から選任することとし,勅任官の大宮司以下の職務などが定められている。また皇室の祖廟としての位置を明らかにするために,1900年に内務省所管の神宮神戸(かんべ)署を置き,神宮暦の製作販売,大麻(たいま)(神宮が授ける神符)の頒布,奉幣など,国民と神宮とを結びつけるさまざまなものを管掌させ,神宮司庁は国家的な祭祀に関することをつかさどることとした。また神宮司庁には付属機関として官立の専門学校である神宮皇学館,神宮に伝わる典籍を収める神宮文庫,歴史博物館としての神宮徴古館,農業館などが設けられた。46年,占領政策によって国家神道が解体されるに及んで,神宮は国家から離れて宗教法人となり,神社本庁の中心として重きをなし,多数の国民の参詣を集めている。
伊勢講 →伊勢信仰 →伊勢参り
執筆者:

内宮の主要部である大宮院は東西に並ぶ二つの敷地があり,式年遷宮ごとに交替に一方の敷地を用いる。正殿は敷地の後ろ寄りに南面して建ち,その後方に東宝殿と西宝殿がある。この3殿を瑞垣(みずがき)が囲む。さらに二重の玉垣,板垣がめぐり,四方に門を開く。内玉垣の南側,外玉垣の間の広場は祭場で,勅使以下が着座する石壺とかつての斎王候殿である四丈殿とがある。正殿は,桁行き3間,梁間2間,切妻造,平入りかやぶき,掘立柱の建物である。床を高く張り,正面中央に扉口を設けるほかはすべて板壁とし,周囲に高欄つきの縁をめぐらし,扉口前に木階段をつける。棟上には10本の大きな堅魚木(かつおぎ)が並び,両端は破風の先端が屋根を貫いて千木となっている。両妻には太い棟持柱が立つ。すべて白木造で,屋根や軒は反りをもたない。正殿の床下中央には心御柱(しんのみはしら)が埋められている。正殿の形式を神明造という。外宮の正殿も内宮と大差はない。御饌殿は外宮にのみある建築で,大宮院の北東隅の板垣の内側にある。御饌殿が建築史上注目されるのは,板倉の形式を今日まで残している点である。すなわち,柱が直接に桁を受けるのでなく,棟持柱以外は,床を支えるだけで,その上に床をつくり,校倉のように板を組み合わせて壁体をつくっている。屋根形式や千木,堅魚木をもつ点は他の社殿と同じである。戦国時代に式年造替が一時中断する以前は,諸別宮の正殿はほとんどこの板倉形式によっていた。板倉形式から普通の柱をもった形式に変わった事実は,板倉のほうが古い形式であることを暗示しており,屋根荷重のすべてを強固でない板壁に負担させるのを避けるため,一部を棟持柱に負わせたという意味がでてくる。このように伊勢神宮は,式年遷宮の中絶期や時々の造替時に変化はあったとしても,奈良時代の古式を基本的に伝えているといえよう。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊勢神宮」の意味・わかりやすい解説

伊勢神宮
いせじんぐう

三重県伊勢市所在の皇大神宮(内宮。祭神アマテラスオオミカミ)と豊受大神宮(外宮。祭神トユケノオオカミ)両社の総称。伊勢大神宮,大神宮ともいうが,正式には単に神宮という。創立は 4世紀初頭。内宮は崇神天皇のときに,代々宮中にまつってきた八咫鏡を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移し,さらに垂仁天皇のときに,五十鈴川上流の現在地に社を造営したのが起源といわれる。外宮は古名を度会宮(わたらいのみや)ともいい,雄略天皇のときにトユケノオオカミを丹波国から移したことに始まるとされる。皇祖神の宗廟として皇室から最高の尊崇を受け,後醍醐天皇のときまでは代々皇女を斎宮として奉仕させた。神嘗祭(かんなめさい。外宮 10月16日,内宮 10月17日)をはじめとする諸例祭は,大宝律令延喜式以来の古儀をよく保存している。社殿を 20年ごとにつくり替える「式年造替」の制があり,それに伴って遷宮(→式年遷宮祭)が行なわれる。古制が完全に継承されており,2013年10月に第62回遷宮の儀式が行なわれた。正殿はヒノキの素木(しらき)を用い,規模の大きい唯一神明造(→神明造)で,切妻造の平入り,柱は掘立柱,屋根は茅ぶき,まわり縁で正面に階段がある。棟の両端に千木が高くそびえ,棟木の上に堅魚木を載せる。仏教渡来以前の古い日本建築の形式を示す。神宝,古文書などは付属の徴古館,神宮文庫に収納。このうち『玉篇巻第廿二』は国宝に指定されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊勢神宮」の解説

伊勢神宮
いせじんぐう

三重県伊勢市に鎮座。皇大神宮(内宮(ないくう))と豊受(とようけ)大神宮(外宮(げくう)),および両社に所属する宮社の総称。古来,伊勢大神宮・二所大神宮などとよばれたが,現在は神宮を正式名称とする。内宮を伊須受(いすず)宮・天照皇大神宮とも,外宮を豊受宮・止由気(とゆけ)宮・度会(わたらい)宮とも称した。祭神は内宮が天照(あまてらす)大神,相殿に天手力男(たぢからお)神・万幡豊秋津姫(よろずはたとよあきつひめ)命。外宮が豊受大神,相殿に3座(神名不明)。垂仁25年,諸国巡幸ののち当地に鎮座したのが内宮の始まりと伝えるが,元来この地には地方神が祭られており,5世紀末~6世紀頃に天照大神が畿内から移されたとする説もある。一方外宮は,雄略22年,天照大神の神慮により御饌都(みけつ)神として止由気神が丹波国比治の真奈井原から山田原に遷座されたと伝える。もとは伊勢の地方神であったとする説もある。中央氏族の大中臣(おおなかとみ)氏が祭主・宮司を勤め,内宮は荒木田氏,外宮は度会氏が禰宜(ねぎ)として奉仕した。7世紀末に式年遷宮が開始され,律令制下では最高の国家祭祀の対象として斎宮(いつきのみや)がおかれた。また天皇以外の私的奉幣が禁じられた。平安末期以後,神領・神宝寄進が盛んに行われるようになって,御師(おんし)の制が発展し,近世には各地に伊勢講が結成されて庶民の参詣で賑わった。明治期に神宮制度の大改革がなされ,国家神道の中心となった。第2次大戦後宗教法人となる。社殿の建築様式は神明造とよばれる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「伊勢神宮」の解説

伊勢神宮

三重県伊勢市にある神社。皇大神宮(内宮(ないくう))、豊受(とようけ)大神宮(外宮(げくう))と別宮など125社の総称。正称は「神宮」。内宮は五十鈴川の川上に位置し、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀り、三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)を神体として奉斎する。外宮は市の中心部に位置し、豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る。伊勢参りで知られ、「お伊勢さん」とも呼ばれる。玉篇(国宝)など数多くの文化財を有し、旧林崎文庫は国の史跡に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「伊勢神宮」の解説

伊勢神宮
いせじんぐう

三重県伊勢市にあり,内宮 (ないくう) 皇大神宮・外宮 (げくう) 豊受 (とようけ) 大神宮2社の総称
祭神は内宮が皇祖天照大神 (あまてらすおおみかみ) ,外宮が食物・農業の神豊受大神。古代より皇室の氏神として厚い信仰をうけ,未婚の皇女が斎宮 (さいぐう) として奉仕。中世以後御師 (おし) の活躍で維持され,信仰も民間に広まって,近世には各地に伊勢講がつくられた。この社の建築は神明造で,出雲大社の大社造とともに神社建築の代表。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

防府市歴史用語集 「伊勢神宮」の解説

伊勢神宮

 三重県伊勢市にある皇室の祖先をまつった宮です。神明造[しんめいづくり]という独特のつくりかたの建物で知られています。江戸時代には庶民による伊勢詣[いせもうで]がさかんに行われました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

事典・日本の観光資源 「伊勢神宮」の解説

伊勢神宮

(三重県伊勢市)
日本三大神宮」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の伊勢神宮の言及

【天照大神】より

…天照大御神(あまてらすおおみかみ),大日孁貴(おおひるめのむち),天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)などともよばれる。皇室祖神として伊勢神宮にまつられている。記紀では,その誕生譚,素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)生み,天(あま)の岩屋戸,国譲り神話などの諸神話に登場する。…

【伊勢講】より

…伊勢神宮への信仰をもとに結成された信徒集団。講集団のつねとして,村落共同体に根ざす素朴な信仰形態を基盤にした集団が,伊勢参宮(伊勢参り)に重きを置く方式をとるに至ったと推定されるが,その媒介のはたらきをしたのは御師(おし)である。…

【伊勢信仰】より

…伊勢神宮を中心とする信仰。伊勢神宮は元来〈国家至貴の神〉として皇室以外の奉幣を禁ずるなど,制度上重い地位にあったが,平安末期には王朝財政の衰えとともに支持が薄くなったため,神職団の一部はいわゆる御師(おし)としての活動を開始して,全国的に信徒(檀那)網を広げることに努めた。…

【伊勢神道】より

…伊勢神宮に基盤を置いて形成された神道説で,度会(わたらい)神道とも外宮(げくう)神道ともよばれる。鎌倉時代に形成されたものに限るときは,これを前期伊勢神道,江戸時代のに限るときは後期伊勢神道とよぶことがある。…

【伊勢国】より

…桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。伊勢神宮は,垂仁天皇の世に倭姫命が五十鈴川上に天照大神の斎宮をたてたのが内宮のはじまり,雄略天皇の世に豊受大神を山田原にまつったのが外宮のはじまりとされる。桑名郡多度町の多度神社は,鉄工業の神として古来尊崇され,788年(延暦7)の〈神宮寺伽藍縁起幷資財帳〉がある。…

【伊勢使】より

…朝廷から伊勢神宮に遣わされる勅使のこと。伊勢神宮の神嘗(かんなめ)祭にあたり幣帛供進のため遣わされる伊勢例幣使のほか,臨時に遣わされる奉幣の使をもいう。…

【伊勢参り】より

伊勢神宮への参詣。伊勢参宮ともいう。…

【ええじゃないか】より

…1867年(慶応3)8月から翌年4月ころにかけ,伊勢神宮の神符等が降下したということを契機に,畿内・東海地区を中心におこった狂乱的な民衆運動。名称は民衆が踊りながら唱えた文句に〈ええじゃないか〉〈よいじゃないか〉〈いいじゃないか〉等の語があったためであるが,慶応当時はお下り(駿河,近江),御札降り(遠江),おかげ(伊勢,河内),おかげ騒動(伊勢),おかげ祭(信濃),大踊(阿波,備前),雀踊(淡路),チョイトサ祭(信濃),ヤッチョロ祭(信濃)などと呼ばれることが多かった。…

【延暦儀式帳】より

…804年(延暦23)伊勢の内宮・外宮それぞれの禰宜・大内人らが執筆し,神祇官の検校を経て太政官へ提出した解文(げぶみ)で,内宮側の《皇太神宮儀式帳》,外宮側の《止由気宮(とゆけぐう)儀式帳》の2部よりなる。いずれも伊勢神宮関係記録中の最古のもので,《皇太神宮儀式帳》には,その鎮座由来,殿舎,三節祭の朝夕大御饌(おおみけ),遷宮の用物・装束,遷宮行事,所管神社,禰宜・内人・物忌ら職員の職掌,度会(わたらい)・多気・飯野の神三郡の沿革・経営,御調・荷前(のさき)供奉,幣帛,年中行事など23条について詳細に記され,《止由気宮儀式帳》には鎮座由来より,殿舎,朝夕大御饌行事,遷宮用物および装束,遷宮行事,所管神社,禰宜・内人・物忌らの職掌,年中行事など9条について,また詳しく記されている。のちの《延喜式》巻四の伊勢太神宮式と比べてみると,その制とほとんど一致し,あるいはその《延喜式》の祖型《弘仁式》制定の基礎として提出を命ぜられ,記されたものかとみられる。…

【大物忌】より

…伊勢神宮の古い祠官の一つで,数多くある物忌職の最も重要なもの。主として天照大神の大御饌(おおみけ)を奉仕する。…

【お蔭参り】より

…江戸時代,数次にわたりみられた伊勢神宮への民衆の大量群参のこと。御影参りとも書く。…

【垣】より

…全く同一のものを,場合によって,垣,塀,あるいは柵と呼ぶことも少なくない。 日本における木造の垣の古い形式は,伊勢神宮の神殿の周囲に見られる。最も内側にあるのは,厚板を密に縦に並べた〈瑞垣(みずがき)〉,つぎは角材を柵状に組んだ〈内玉垣〉,さらに丸太を柵状に組んだ〈外玉垣〉があり,最も外側に板塀状の〈板垣〉がある。…

【神衣祭】より

…伊勢神宮恒例大祭の一つで,皇大神宮および荒祭宮に和妙(にぎたえ)(絹),荒妙(あらたえ)(麻)の御衣を奉る祭り。神祇令によれば,孟夏(4月),季秋(9月)の2回行われ,〈此れ神服部(かんはとり)等,斎戒潔清にして,参河の赤引神調(あかひきのかんつぎ)の糸を以て,神衣を織り作り,又麻績連(おみのむらじ)等,麻を績みて敷和衣(うつはたのみそ)を織りて,神明に供す,故に神衣と曰ふ〉(《令義解》)とある。…

【国家神道】より

… 神祇官を中心とするこうした諸政策は,神道国教化政策と呼ばれている。それは,仏教を排し,伊勢神宮と宮中祭祀を頂点においた整然たる神社の階層秩序をつくりあげ,神道によって国民の宗教生活を掌握することでイデオロギー的統合をはかろうとするものであった。しかし,仏教の完全な排除には執拗な抵抗があり,仏教の国民生活への定着は度外視できなかったから,72年には教部省大教院を設け,教導職の制度を定めて僧侶も教導職に任命し,仏教や民俗信仰から生まれた講社なども組みいれた宣教体制がとられた。…

【神宮頭人】より

…室町幕府神宮方の頭人。神宮方は,伊勢神宮の造替にかかわる役夫工米(やくぶくまい)の徴収指揮権ならびに免除権を掌握していた。伊勢神宮役夫工米にかかわる事項は元来朝廷の専断下にあったが,南北朝内乱の展開過程で,国家的諸権限が朝廷から幕府に移譲されていく一般的趨勢にともない,遅くとも1396年(応永3)以前に設置されたと考えられている。…

【神社】より

… 記紀神話によれば,出雲の国譲りに際し,天照大神は大国主神に対して,日隅宮(ひすみのみや)を建造すべきことを約束し,また瓊瓊杵(ににぎ)尊が日向の高千穂の峯に降臨したとき,これを八衢(やちまた)に迎えた猿田彦神は,地上に降って伊勢の五十鈴河のほとりに退いたが,のちにその地に倭姫命がたどりつき,天照大神の神鏡を鎮祭するに至ったと伝えている。この神話は,のちの出雲大社と伊勢神宮の起源を語るもので,両宮は日本の神社の中で最古のものと考えられた。その後,崇神天皇のときに,大国主神の子大物主神を大和の三輪山にまつり,また倭大国魂神を同国の山辺郡にまつったとあるが,それらは出雲,伊勢につぐ神社であった。…

【神社建築】より

…すなわち一つの杜,一本の柱のなかに神を見いだしたのと同じ観念と感覚とに支えられて,極小の神殿をもって神の宿るところの象徴としたのであったろう。
【伊勢神宮の創立】
 神社建築がそのような原初的形態から出発したとするならば,それがのちに寺院建築と並ぶ記念的建築として完成するためには大きな転機が必要であった。それはおそらく伊勢神宮の整備と関係があろう。…

【神明社】より

…神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至った。伊勢神宮の神領(神戸(かんべ),御厨)の設定された地に天照大神の分霊を迎えて神明社が創建される例は,鎌倉時代に見えはじめ,早いものとしては1186年(文治2)鎌倉甘縄(あまなわ)の神明社が源頼朝によって修理を加えられて,〈伊勢別宮〉とされていた事例がある(《吾妻鏡》)。伊勢信仰の発展とともに,この風は神戸,御厨以外の地でもしきりに発生し,ことに南北朝期以後,今(いま)神明とか飛(とび)神明とかよんで,伊勢内外宮の神が各地に迎えられてまつられることがあいついだ。…

【崇神天皇】より

…和名を御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命という。この天皇が記紀の伝承の中で特に目だつ点は,大物主(おおものぬし)神をはじめとしてもろもろの国津神(くにつかみ)を祭り,また伊勢神宮の創始に関係したとされることである。《日本書紀》によると,それまで天皇と共殿共床の関係にあった天照大神(あまてらすおおかみ)を豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命に託して宮廷の外に移し,いわゆる神人分離の基をつくった。…

【遷宮・遷座】より

…神殿の改修造営に際して,神霊を移すこと。この場合,遷宮は伊勢神宮にのみ用い,一般神社では遷座といい,その祭儀を遷宮祭,遷座祭という。伊勢神宮では,7世紀後半の天武朝以来20年に1度〈式年遷宮〉が行われ,中世戦乱期に一時遅延したが,現在まで続いて行われている。…

【月次祭】より

…古くは神祇官で行われたまつり。原義は月ごとのまつりであるが,令制では6月,12月の年2回としている。このとき《延喜式》巻十,十一所載の神社のうち,官幣の大社304座の神々に奉幣がなされた。《貞観儀式》などによればその後神今食(じんこんじき)を行った。伊勢の神宮の月次祭も,古来,6月と12月の年2回行われ,大祭である。10月の神嘗祭(かんなめのまつり)と合わせて三節祭(さんせつさい)とも三時祭(さんじさい)ともいう。…

【飛神明】より

…伊勢神宮の神霊が影向(ようごう)し神社としてまつられたもの。その神社は今神明と呼ばれることが多かった。…

【御厨】より

…古代・中世の皇室や伊勢神宮などの大神社に付属する,食料品調達にかかわる所領。平安時代末から鎌倉時代ごろには荘園とほとんど変わらないものとなったが,本来は荘園のような所領ではなく,厨は台所を意味し,むしろ供御(くご)物や神饌を調達するために,皇室や神社に所属した山民・海民集団の構成する機関とでもいうべき実態のものであった。…

【御薗】より

…古代,中世の皇室や伊勢神宮などの大神社に付属する,食料品調達にかかわる所領。古代の律令制のもとでは,宮内省所属の園池司と典薬寮にと薬園が付属していた。…

【役夫工米】より

…平安後期から室町期にかけ,伊勢神宮の20年1度の式年遷宮の造営費として,諸国の公領・荘園から臨時に徴収した米。〈やくぶたくまい〉ともいう。…

【山田奉行】より

…伊勢町奉行,伊勢郡代,伊勢山田町奉行などともいう。伊勢国山田は中世には伊勢神宮の門前町として発展したが,豊臣秀吉はこれを直轄地とし,神宮仕職の神部貞永を奉行に任命して支配にあたらせた。江戸幕府も直轄下に置き,1603年(慶長8)北畠氏の庶流とも,伊勢白子の町人出身とも伝えられる長野友秀を奉行に任じた。…

【例幣使】より

…朝廷より毎年,神社に幣帛を奉るため遣わされる祭使のこと。とくに,伊勢神宮神嘗祭の奉幣を例幣といい,毎年9月11日をもって発遣される奉幣使をさして,伊勢例幣使と称した。例幣使は五位以上の諸王のなかから占いをもって定め,これに神祇官の中臣,忌部,卜部が従い,これを四姓幣使とも称した。…

※「伊勢神宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android