仁科御厨(読み)にしなのみくりや

日本歴史地名大系 「仁科御厨」の解説

仁科御厨
にしなのみくりや

仁科御厨の文献上の初見は平安時代末期で、治承三年(一一七九)一一月二八日に、仁科盛家が安曇あずみ藤尾ふじお郷の覚音かくおん寺に千手観音像を造立した時の木造千手観音立像造像銘に、「仁科」「御厨」とみえている。当時仁科御厨の範囲が現北安曇八坂やさか大平おおだいら藤尾の地にまで及んでいた。仁科御厨の名が現れるのは、鎌倉時代初期で、「吾妻鏡」の文治二年(一一八六)三月一二日条に、関東知行国内の院宮領以下の諸荘の未済年貢の提出を督促した注文の中に「太神宮御領仁科御厨」とあって、伊勢神宮領であることが知れる。

次いで、皇太神宮建久已下古文書(神宮文庫蔵)の建久三年(一一九二)八月に伊勢神宮の禰宜らが信濃などの神宮領の子細を注進した文書の中に、

<資料は省略されています>

と記されている。「仁科御厨」は、この御厨が内宮の御厨であることを示している。次に「件御厨往古建立也」は、仁科御厨が創設された年次が不明で、ただ昔の創設であるとだけいい、当の神宮側でもわからないという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報