北長谷村(読み)きたはせむら

日本歴史地名大系 「北長谷村」の解説

北長谷村
きたはせむら

[現在地名]岩沼市北長谷・まつおか一―四丁目

高館たかだて丘陵の南端千貫せんがん丘陵の東麓にあり、東は岩沼郷、南は南長谷村、北は三色吉みいろよし村に接する。村名は字畑向山はたむかいやま曹洞宗長谷ちようこく寺に由来するという。寛永五年(一六二八)の伊達政宗領知渡方黒印状(伊達家文書)に「北長谷村」とみえ、高三六貫一〇七文の当村が後藤加賀に下されている。正保郷帳では田五二貫七七〇文・畑六貫九七一文、旱損と注され、ほかに新田二三七文。万治三年(一六六〇)田村宗良領となり(寛文元年「田村右京分村付帳」一関市立図書館蔵)、本知五九貫九七八文・除屋敷代二九五文・新田四貫八九一文。天和元年(一六八一)の同氏所替後は古内氏知行地となった。「封内風土記」の戸数四七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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