岩沼郷
いわぬまごう
[現在地名]岩沼市桑原一―四丁目・藤浪一―二丁目・阿武隈一―二丁目・吹上一―三丁目・大昭和・二木一―二丁目・舘下一―三丁目・大手町・稲荷町・本町・中央一―四丁目・桜一―五丁目・末広一―二丁目・相の原一―二丁目・梶橋・栄町一―三丁目・朝日一―二丁目・土ヶ崎一―四丁目など
阿武隈川北岸にあり、五間堀が南部を西から東へ流れ、南東端で向きを変え北流する。北東は堀内村(現名取市)、西は三色吉村・北長谷村に接する。奥州街道が南北に縦貫する。鵜ヶ崎城(岩沼城・岩沼要害)の城下町、奥州街道の宿場町、竹駒神社の門前町として栄え、この地方の中心地であった。古くは当地は武隈とよばれた。「後撰集」などに詠まれた「武隈の松」の比定地とされる。また陸奥国府があったという説があるが、真偽は不明。観応三年(一三五二)一一月三日の足利尊氏袖判御教書(榊原家文書)には「曰理郡武熊村」などが「宮城郡関袋郷」の替地として山名下野守に宛行われたことがみえる。郡は異なるもののあるいは当地をさすか。岩沼と称されるようになった時期は不明であるが、天正一九年(一五九一)二月九日の伊達政宗書状(伊達家文書)によれば、葛西大崎一揆の際、一揆方の大将が「岩沼」で捕らえられたことがみえている。地名は鵜ヶ崎城周辺にあった沼の名にちなむともいわれる(封内風土記)。
天正年間泉田安芸守重光は八千石をもって鵜ヶ崎城に入り(伊達世臣家譜)、その後石田宗朝らの支配を経て寛永一三年(一六三六)から古内主膳、万治三年(一六六〇)田村宗良領。天和元年(一六八一)の同氏所替後は古内造酒祐を経て、貞享三年(一六八六)以降古内広慶の知行となった。正保郷帳では岩沼宿とみえ田一三三貫四三三文・畑三五貫六五三文、水損・旱損と注され、ほかに新田二六貫五七一文とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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