千町庄
ちまちのしよう
現夷隅町北部を中心に現岬町岩熊・睦沢町大上を含む地域に比定される。「夢窓国師年譜」に元亨三年(一三二三)正月「往上総千町荘」とみえ、夢窓疎石は庄内に退耕庵をつくり住している。平安時代末に夷隅郡が伊北・伊南に解体後、一括して鳥羽金剛心院(現京都市伏見区)に寄進されて伊隅庄と総称された。室町期のものと思われる年未詳一二月一九日の某書状(九条家文書)に「金剛心院領上総国伊北・伊□・千町三ケ庄」とあることから、鎌倉後期に伊北庄・伊南庄の一部が千町庄として分立したものと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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