日本歴史地名大系 「南玉村」の解説 南玉村なんぎよくむら 群馬県:佐波郡玉村町南玉村[現在地名]玉村町南玉利根川右岸に位置し、ほぼ日光例幣使街道まで広がる。西は福島(ふくしま)村、東は箱石(はこいし)村・下之宮(しものみや)村、南は上茂木(かみもぎ)村で、北の利根川対岸は樋越(ひごし)村。集落は利根川沿いの上根(かみね)・中原(なかはら)、日光例幣使街道沿いの前内手(まえうちで)、その間の住吉(すみよし)(中通)・社宮島(しやくじま)・西内手(にしうちで)の六集落がある。寛延年間(一七四八―五一)に記されたと推定される南玉村由緒書(神尾文書)には永禄年間(一五五八―七〇)から元和元年(一六一五)にかけて「寄合屋敷六カ所」とあり、集落の代表者六名と四七軒の名があげられている。これは前述の六集落と対応していることから、当村の集落構成は戦国末期から近世初頭にかけて完成したと推定される。 南玉村みなみだまむら 千葉県:山武郡大網白里町南玉村[現在地名]大網白里町南玉大竹(おおだけ)村の南西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四七八石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では法目組に属し、旗本小島領五〇〇石余。延享元年(一七四四)より旗本神尾領となるが、文政六年(一八二三)神尾氏の改易後は旗本松平領(「小堤村旧記」神保家文書)。幕末まで同領(慶応二年「捉飼場五郷連印帳」渡辺家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四四。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by