日本歴史地名大系 「佐波郡」の解説
佐波郡
さわぐん
明治二九年(一八九六)に
〔原始・古代〕
先土器文化の遺跡は郡東部の洪積台地に分布し、尖頭器などの石器が出土している。縄文文化の遺跡も郡東部の赤堀町・東村に多く発見され、赤堀町の
佐波郡
さばぐん
山口県のほぼ中央部に位置するが、旧佐波郡のうちの瀬戸内海に面する南方が
「日本書紀」景行天皇一二年九月条に「周芳の娑麼に到りたまふ」とあり、郡名は天平六年(七三四)の周防国正税帳(正倉院文書)に「佐波郡」とみえるのが早い。九条家本「延喜式」(民部省)に「佐波郡」とある。
〔原始・古代〕
縄文時代の遺跡はあまり多くはないが、佐波川中流左岸の、眼下に佐波川を見下ろす徳地町大字
「日本書紀」景行天皇一二年の条には、天皇が筑紫に西下の途中「娑麼」に至ったとあるのをはじめ、仲哀天皇八年正月の条には、穴門より筑紫に行幸の途中、岡県主の祖熊鰐なる者が「周芳の沙麼の浦に参迎ふ、魚塩の地を献る」とある。「旧事本紀」によれば、仁徳天皇の時に田鳥足尼が都怒国造に定められ、紀田鳥宿禰の孫米多臣が、周芳国より讃岐国に移り、のちに佐婆部首を称した(「続日本紀」延暦一〇年一二月一〇日条)とあることなどから、当時、佐波郡一帯の地は都怒国に含まれており、大化の改新以降に都濃郡と佐波郡に分割されたといわれる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報