日本歴史地名大系 「富田村」の解説
富田村
とんだむら
- 大阪府:高槻市
- 富田村
中世富田庄の地であったが、文明年間(一四六九―八七)本願寺蓮如がこの地に駐錫して一向宗道場(現教行寺)を開くや(大谷嫡流実記ほか)、寺内町が形成されたと考えられ、永正―大永(一五〇四―二八)の動乱期を経てしだいに北摂の一向宗徒の結集するところとなり、町場が整備されたと思われる。享禄四年(一五三一)六月、細川高国配下の将細川尹賢が木沢長政に追込まれて富田に入り、富田寺(現教行寺)に避難するなど(陽明文庫所蔵本「後法成寺尚通公記」同月五日・七日条)、戦乱に巻込まれることもあった。天文元年(一五三二)には一向衆は細川晴元と対立、細川勢と日蓮宗徒との連合軍によって摂津や和泉の一向宗寺院などが焼打ちされ、同年一二月二三日には薬師寺与一らを中心とする郡内武士による一向宗道場焼打ちで、ともに富田道場も焼亡した(私心記など)。同五年には天文法華の乱が起こり、晴元は本願寺に対し富田坊再興の下知状を下し(「天文日記」同年一〇月二〇日条ほか)、寺内町も復興したと考えられる。永禄一二年(一五六九)三月、
富田村
とんだむら
- 山口県:新南陽市
- 富田村
山陽道沿いの街村で東北は
古代は「和名抄」記載の富田郷の郷域に含まれていたと思われるが、別に
慶長五年(一六〇〇)の検地帳は、富田郷として総高二千五三二石八升九合を記すが、同一五年の検地帳では同じく富田郷で高五千二七二石余、うち田方が二六六町余で四千一二六石余、畠方が一四四町余で五二一石余、百姓屋敷五二四、市屋敷九三、浦屋敷一三一、浦浮役九七石余、塩浜方七〇石余、小物成三九石余とある。
毛利輝元は元和七年(一六二一)次男就隆に分知の一部替地として富田五千七三七石の地を約束したが、翌年富田で五千三三九石四斗一升七合を打ち渡している(毛利家文書)。
富田村
とみたむら
郡山村の北東、
富田村
とみだむら
北に太平山に連なる
富田村
とみたむら
富田村
とんだむら
富田村
とみたむら
- 茨城県:岩井市
- 富田村
とあり、半谷村とともに冨田郷を形成していた。天正二年(一五七四)の古河公方足利義氏料所目録(喜連川文書)には「とミ田・半谷 芳春院」とみえ、現
富田村
とうだむら
富田村
とみたむら
富田村
とみたむら
富田村
とみたむら
松平忠頼領郷村帳に飛田村とみえ高三七石余、田一町九反余・畑三町四反余、ほかに
富田村
とみだむら
富田村
とみたむら
富田村
とみだむら
富田村
とみたむら
富田村
とみたむら
富田村
とみだむら
- 愛知県:東海市
- 富田村
東西に細長く、東に丘陵地が多い。富田川が村北を東から西へ流れる。北は
在原業平伝説があり、冨田出身の下女八ッ橋が業平の男児を産み、業平が京に帰る際、この地で暮した。
富田村
とみたむら
矢作川上流部の富国橋の北に位置し、西側を
富田村
とんだむら
富田村
とみたむら
富田村
とみたむら
富田村
とみたむら
富田村
とみだむら
富田村
とみだむら
- 愛知県:尾西市
- 富田村
西は木曾川に沿い七〇〇間ほどの堤防が連なり、北は
富田村
とみだむら
- 群馬県:前橋市
- 富田村
東を
富田村
とみたむら
霞ヶ浦の東岸にあり、北は
富田村
とみだむら
慶長八年(一六〇三)の常世之内北野村縄打帳(福島県史)に富田村とみえるが、正保郷帳・元禄郷帳には菅生村とあり、天和三年(一六八三)に富田村と改称したといわれる。
富田村
とみだむら
富田村
とみだむら
富田村
とみだむら
富田村
とみたむら
富田村
とみだむら
富田村
とみたむら
- 栃木県:矢板市
- 富田村
矢板村の南に位置する。慶安郷帳では高二五三石余、田方一九五石余・畑方五八石余、幕府領。元禄郷帳では高二五四石余で旗本水野領。延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり、幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数二九(改革組合村)。
富田村
とみたむら
富田村
とみたむら
富田村
とみだむら
富田村
とみだむら
富田村
とみだむら
- 群馬県:太田市
- 富田村
富田村
とみだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報