日本大百科全書(ニッポニカ) 「南部藩大一揆」の意味・わかりやすい解説
南部藩大一揆
なんぶはんだいいっき
江戸後期、奥州南部(盛岡)藩で起こった大一揆の総称。三閉伊通(さんへいどおり)一揆とも。近世中期以降の大凶作、後期の蝦夷(えぞ)地警備などで藩財政は危機に瀕(ひん)し、豪商からの借財、領民への御用金や新税の賦課が行われた。1847年(弘化4)末、御用金5万2000両が賦課されると、不満は一挙に爆発。とくに賦課額の大きかった三陸沿岸の三閉伊通の農民はその撤回と諸雑税の撤廃を求めて大一揆を組織して要求の一部をかちとった。
ついで1853年(嘉永6)、藩は内部抗争や蝦夷地出兵の負担増などで極度に窮乏し、またまた領民に重課を行ったため、三閉伊通を中心に全藩的に不満が高まった。田野畑(たのはた)村多助(たすけ)や栗林(くりばやし)村三浦命助(めいすけ)らは、仙台藩領、逃散(ちょうさん)し伊達(だて)氏の斡旋(あっせん)で要求を実現しようとする一揆を計画し5月に実行。越境者は計8000人に上り、三閉伊通を天領か仙台領とすること、専売制・輸出入税反対など52か条にわたる要求を提出、仙台藩が斡旋に入り、要求をほぼ満たす形で解決。藩は幕府から非難され、二百数十名に上る役人が処罰された。
[青木美智男]