日本歴史地名大系 「南長太村」の解説 南長太村みなみなごむら 三重県:鈴鹿市旧河曲郡地区南長太村[現在地名]鈴鹿市南長太町・長太栄(なごさかえ)町一―五丁目・長太旭(なごあさひ)町二丁目・同四丁目北長太村の南東にある。河曲郡沖積平野の東端に位置し、村落の大部は条里制区画中にあって、一の坪(いちのつぼ)・二の坪の地名もみられ古代の海部(あま)郷に属する。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳に「□(六カ)百貫 河曲郡南長太 相違 御扶持不申候 岡田新八」と現れる。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「千六百六拾三石五斗五升 南長太之郷」とある。江戸初期は幕府領、慶安四年(一六五一)の石川氏入部以後神戸藩領となり、同藩領のまま享保一七年(一七三二)以降本多氏に引継がれて明治維新に至った。文化六年(一八〇九)の家数一二七(「清渚秘記」本田善一郎氏蔵)、同一四年は家数一一四、人数五七六(「諸用雑記」同氏蔵)、明治五年(一八七二)各区戸長名簿では家数一二九。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by