現海部町
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大化前代に漁業と航海技術によって奉仕した部。海人部とも記す。《日本書紀》によれば,応神天皇3年諸国の海人の騒ぎを鎮めた大浜宿禰(すくね)(阿曇氏の祖)を海人の統率者とし,同5年海部を定めた,という。《古事記》もまた海部を定めたのが応神朝であることを伝えている。この時代は,4世紀後半から始まる日本の朝鮮半島への大規模な進出の時期に当たっており,水軍の兵力としての海人を組織的に掌握する必要があったものであろう。海部は主として遠江,越前以西に分布し,各地に海部郡,海部郷などの地名を残している。とくに吉備,阿波,淡路,紀伊の海部は著名である。各地の海部はそれぞれ首長(海部直(あたい),海部首(おびと),海部公(きみ))に率いられて朝廷に海産物を貢納するとともに,航海技術者として海上輸送に重要な役割を果たした。中央にあって各地の海部を統轄したのは阿曇氏であるが,同氏と祖先を同じくする凡海(おおしあま)氏も一時期海部の管掌者であったと考えられている。
→海人(あま)
執筆者:後藤 四郎
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徳島県南部、海部郡にあった旧町名(海部町(ちょう))。現在は海陽町(かいようちょう)の中南部を占める地域。旧海部町は、1955年(昭和30)鞆奥(ともおく)町と川西村が合併して成立。2006年(平成18)海南、宍喰(ししくい)の2町と合併、海陽町となった。JR牟岐(むぎ)線の終点であり、さらに阿佐海岸鉄道が延びる。国道55号(土佐浜街道)、193号が通じる。地域の中心は太平洋に注ぐ海部川河口の奥浦で商業町であり、また海部川上流から流す木材の貯木場となっている。漁村の鞆浦には阿波(あわ)九城の一つで、土佐境の押さえであった海部城(鞆城)があり、1638年(寛永15)廃城後も徳島藩郡代役所が置かれた。海部川下流低地と支流母川の流域を占める川西地区は純農村で、施設園芸がみられイチゴを多く産する。海部川流域は海部刀の産地として知られ、室町時代から戦国時代には刀工50人がいたという。母川のオオウナギ生息地は国指定天然記念物。また、母川の河口付近はホタルの生息地になっていて、6月にはホタル祭りが開かれる。
[高木秀樹]
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…古文献に海人,海部,蜑,白水郎などと記す。海を主なる生業の舞台とし,河川,湖沼で素潜(すもぐ)りする漁民をはじめ,釣漁,網漁,塩焼き,水上輸送・航海にたずさわる人々を,今日いう男あま(海士),女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する。…
…日本の前近代を通じて漁村を表示する地名用語。古代社会においては,律令制的な公私共利の原則の下に浦浜の排他的領有は禁じられ,地域共同体全体による用益が行われていたが,他面それと競合する形で,王権に直属して贄(にえ)を貢納する贄人・海部(あまべ)などの漁民集団の漁場利用も存在していた。そして,中世初期,平安時代以降,後者の系譜をひいて,権門寺社による海民編成が進行し,浦浜の私的・荘園制的領有が発展する。…
…吉備は大和政権に早くから服属し,積極的に朝鮮経営に参加した。吉備海部直は,友ヶ島水道を中心とした紀氏とともに,水軍を率いて朝鮮半島に派遣された。古代の漁労,塩生産,海上交通にたずさわった海人(あま)は大和政権によって海部(あまべ)として編成されたが,この海部が内海地域にも分布していた。…
※「海部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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