吉備上道田狭(読み)きびのかみつみちのたさ

朝日日本歴史人物事典 「吉備上道田狭」の解説

吉備上道田狭

5世紀ごろの反乱伝説中の人物。兄君,弟君の父。その妻稚媛(一説に葛城玉田宿禰の娘毛媛という)を奪おうとした雄略天皇によって任那国司に任じられたが,任所で事実を知ると新羅に通じた。その子弟君は討伐を命じられたが従わず,逆に田狭と通じたため妻樟媛に殺されたという。稚媛は雄略との間に磐城皇子,星川皇子を生み,雄略の死後星川に反乱を勧めて大蔵を占領したものの,大伴室屋によって星川,兄君らと共に焼き殺された。田狭の反乱伝承は史実とは認めがたいが,吉備(岡山県)の豪族が中央に出仕していたこと,一説に葛城氏との間に婚姻関係が存在していたことなど,当時の倭王権の構造を考えるうえで興味深い。<参考文献>大橋信弥「吉備氏反乱伝承の史料的研究」(『日本史論叢』3輯)

(佐藤長門)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉備上道田狭」の解説

吉備上道田狭 きびのかみつみちの-たさ

日本書紀」にみえる豪族。
吉備稚媛(わかひめ)の夫。吉備上道弟君(おときみ)の父。雄略天皇につかえ任那(みまな)国司として赴任するが,天皇に妻をうばわれたのを知り,新羅(しらぎ)(朝鮮)とむすんで天皇に敵対新羅征討のために派遣されてきたわが子の弟君にも,離反をすすめたという。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の吉備上道田狭の言及

【吉備田狭】より

…生没年不詳。吉備上道(かみつみち)田狭ともいう。《日本書紀》雄略7年是歳条に宮廷で田狭が妻の稚媛(わかひめ)を自慢するのを聞いた雄略天皇は,田狭を任那国司に任じ稚媛を奪ったとある。…

※「吉備上道田狭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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