日本歴史地名大系 「同心屋敷跡」の解説 同心屋敷跡どうしんやしきあと 大阪府:大阪市南区同心屋敷跡[現在地名]南区上本町西一―二丁目・谷町六丁目別名「五十軒屋敷」ともいった。北は桜(さくら)町・坂田(さかた)町、南は吉右衛門肝煎地(きちえもんきもいりち)・塩町口野畑(しおまちぐちのばた)、東は上本(うえほん)町四丁目北半(きたはん)・同南半、西は玉木(たまき)町・万年(まんねん)町に囲まれた地域に、大坂城勤務の在坂役人・鉄砲奉行同心・具足奉行同心屋敷があり、さらに京橋口定番屋敷もあった(明暦元年大坂三郷町絵図)。このうち京橋口(きようばしぐち)定番屋敷はのちに野畑となり、さらにその跡地の一部に破損奉行同心屋敷が置かれた(文久三年改正増補国宝大阪全図)。右の三奉行の同心のうち、屋敷の中心は鉄砲奉行同心屋敷で鉄砲同心牧田家屋敷が現存する。同心の給料は年間一〇石三人扶持で(三人扶持は年間で五石四斗)、定数は時期によって変動があった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by