和知庄
わちのしよう
中世の和知氏の所領で、「芸藩通志」は和知村と茅瀬・田利・仁賀・光清の四村(現双三郡三良坂町)を荘域とするが、いわゆる荘園であったかどうかは不明。
「閥閲録」所収の和智次郎兵衛家由緒書上によれば、建久三年(一一九二)武蔵国の鎌倉御家人広沢余三実方は、源平の合戦の軍功により備後国三谿郡一二郷を与えられた。しかしこの一二郷には和知の地は含まれていなかったといわれ、三谿郡西方へ所領を拡大したのは、孫実村のときとされる。実村は所領を分割してその子実綱と実成に与えたが、兄の実綱は江田庄を、次男実成が和知庄を継承し、それぞれの在地名をとって江田・和知(和智)を名乗った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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