中国山脈南麓に形成された広島県北部の三次盆地に立地。標高一五五メートル前後の市街地を中心に、南は二〇〇メートル前後の丘陵に、北は三五〇メートル前後の山に囲まれ、樹枝状によく開析された地形。南西方の山県郡から流れ出る
三次市は近世以前の三次郡の一部を中心にあり」とみえる。また平城宮出土木簡に「備後国三次郡下三次里人」と書かれたものがある。「和名抄」刊本は三次に「美与之」の訓をつけるが、「延喜式」神名帳の武田本などには「ミスキ」の訓もある。三次を「みよし」と読むことについて「芸藩通志」は「当郡の郷名、上次・播次・下次とあり、此三次を以て郡名とせられしなるべし、但、次をよしと訓ずる義いまだ詳ならず」としている。中世の諸文献には三吉の字をあてるものが多いが、三好・三善もみられる。近世三次藩初代藩主浅野長治が寛文四年(一六六四)五月二二日「従家綱公御領知之御判物四月五日の御日付御頂戴、此節三吉を三次に御改有之」(鳳源君御伝記「三次分家済美録」所収)、以後は三次とされ、現在に至る。
三次市は広島県で最も埋蔵文化財分布の濃厚な所とされる。二万―二万三千年前と推定される地層から石刃・剥片の出土した
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報