朝日日本歴史人物事典 「唐崎士愛」の解説
唐崎士愛
生年:元文2(1737)
江戸中期の神官,国学者,勤皇の志士。通称常陸介。号は赤斎,瓊山など。安芸国竹原(竹原市)の磯宮八幡宮祠官の家に生まれ,家職を継ぐ。15歳のとき伊勢に遊学して谷川士清に国学を学び,7年後帰国して子弟を教授した。皇室の衰えを憂い勤皇の説を唱え,しばしば上京して志士と交わった。聖護院法親王の邸で高山彦九郎と出会い,意気投合したが,寛政5(1793)年,彦九郎が自刃すると,その遺志を継いで,柄崎八百道と変名して同志の糾合に尽力。しかし志の成りがたきを憤って,竹原庚申堂で切腹して果てた。死に先だち日常の記録や書簡類を焼却したという。
(白石良夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報