江戸中期の洋風画家。1738年生まれ説は、晩年の9歳加算年齢に惑わされた誤り。本姓安藤、名は吉次郎、のち土田氏に入夫(にゅうふ)、勝三郎または孫太夫といった。青年時代の浮世絵師としては(鈴木)春重(はるしげ)、肉筆美人画では蕭亭(しょうてい)春重と称したが、中年以降の漢画と洋風画では姓を司馬、名を峻(しゅん)、字(あざな)を君嶽(くんがく)、号を江漢、春波楼(しゅんぱろう)と称し、晩年には不言(ふげん)、無言(むごん)、桃言(とうげん)などと号した。
少年時代に江戸狩野(かのう)の画人に学んだが、父の死にあい鈴木春信(すずきはるのぶ)の門下に転じて、春重の名を与えられ浮世絵版画に従事。1770年(明和7)春信の急死に乗じ、その偽版をつくったところ、だれも見破る者がなかったと自称しているが、これは版元の命による代作であったと考えられ、あるいは2世春信として認められたうえでの制作であったかもしれない。やがて浮世絵版画界を去り、宋紫石(そうしせき)(楠本雪渓(くすもとせっけい))から南蘋(なんぴん)派の写生体漢画を学び、かたわら1781年(天明1)ごろまで肉筆美人画も多く描いた。1780年(安永9)前後、洋学の先駆者平賀源内の影響と秋田蘭画(らんが)の小田野直武(おだのなおたけ)の指導を受けて、洋風画に転向し、1783年(天明3)大槻玄沢(おおつきげんたく)の協力を得て、日本最初のエッチング(腐食銅版画)をつくった。以後は西洋銅版画の模刻と日本風景の銅版画を多く制作し、また油絵も習得した。1788年長崎に旅行したが、その際にオランダ人から洋画を学んだという説は誤りである。江戸に帰ってから、18世紀末より19世紀初頭にかけて、多数の油彩日本風景図を描き、洋風画の普及に尽くした。また、このころから西洋自然科学の普及に努め、『地球全図略説』(1793)『和蘭(オランダ)通舶』(1805)『和蘭天説』(1796)『刻白爾(コッペル)天文図解』(1808)などを著して万国地理や地動説を紹介し、『西洋画談』(1799)を出版して西洋画の写実の優秀性を説いた。
1808年(文化5)正月、62歳のとき年齢を9歳加え、以後は加算年齢を自称し、1813年に偽って死亡通知を配付するなど、晩年は奇行が多かったが、『独笑妄言(どくしょうもうげん)』(1810)『春波楼筆記』『無言道人筆記』(1814)などの随筆により、独特の人生哲学を説き、人間の平等や開国について論ずるなど、進歩的思想家や随筆文学者として注目すべき業績をあげた。江漢は、近代以前のもっとも有名な洋風画家なので、いまだに誤って日本洋画の開祖とされることがあり、また彼の款印を入れた偽物も非常に多い。文政(ぶんせい)元年10月21日没。
[成瀬不二雄 2016年5月19日]
『成瀬不二雄著『日本美術絵画全集25 司馬江漢』(1977/普及版・1980・集英社)』▽『細野正信著『司馬江漢』(1974・読売新聞社)』
江戸時代の洋風画家,思想家。生年には1738年(元文3)説もあるが,これは晩年の9歳加算年齢に惑わされた誤りである。江戸に生まれ,本名は安藤吉次郎,のち土田氏に入夫して勝三郎または孫太夫といったと伝える。画家として姓を司馬,名を峻(しゆん),字を君岳(くんがく)と称したが,青年期の浮世絵師時代には鈴木春重,肉筆美人画では蕭亭(しようてい)春重,漢画と洋風画では江漢,春波楼(しゆんぱろう),晩年には不言,無言,桃言などと多くの号がある。少年期に江戸狩野に入門し,のち鈴木春信門下の浮世絵師となり,1770年(明和7)春信の急死後,おそらく版元の強請によりその偽版を作った。その後間もなく浮世絵界を去り,南蘋(なんぴん)派の宋紫石から写生体花鳥画を学び,漢画家となったが,肉筆美人画も描いた。80年(安永9)ころに平賀源内と秋田蘭画の小田野直武の影響により洋風画に転向し,83年(天明3)日本最初の腐蝕銅版画(エッチング)を作り,以後西洋銅版画の模刻と日本風景の銅版画を制作し,油絵も習得した。88年長崎に旅行し,18世紀末から19世紀初頭にかけて油絵の洋人図や日本風景図を多く描き,その一部を懸額として各地の社寺に奉納し,洋風画の普及に尽くした。また,このころから西洋自然科学の紹介者としても活躍し,《地球全図略説》《刻白爾(コツペル)天文図解》などの著書を出版して,世界の地理風俗や地動説の知識を説いた。彼は生来自意識が強かったが,晩年は特に奇行が多く,1808年(文化5)正月62歳のとき年齢を9歳加え,以後加算年齢を称した。13年には偽って死亡通知を配付したこともある。また禅宗や老荘思想にも親しみ,哲学,随筆文学の業績もあり,その思想を説いた《独笑妄言》(1810),《春波楼筆記》(1811),《無言道人筆記》(1814)などを書いた。晩年の画作には在来の伝統的な画法による思想的教訓画が多いが,12年京都滞在中に描いた富士図の連作には,和洋の画法が見事に融合した傑作がある。
執筆者:成瀬 不二雄 司馬江漢は西洋の天文学,地理学を日本に紹介することにおいても貢献した。中でも有名なのは日本最初の銅版世界図《輿地全図》(1792)の刊行である。当時大槻玄沢所蔵のT.コバン,C.モルティエ共編のフランス語版双円世界図(刊年不詳)を翻訳し,日本の北辺一帯を改訂したものである。同年刊行の《輿地略説》はその解説書で,のちこれらは《地球図》,また《地球全図略説》と改題増補された。後者では天動説のほかに地動説があることを述べ,さらに《和蘭天説》(1796),《刻白爾天文図解》(1808)では地動説を力説している。天文関係の著作としては,ほかに《天球図》(1796),《屋耳列礼(ヲルレレイ)図解》(1796),《地転儀略図解》(1808?)その他,地理関係としてはアフリカ南端から日本までを含む《和蘭瀕海之図》(1805)およびその解説書《和蘭通舶》(1805),《地球楕円図》(刊年不詳)があり,天文,地理の両方にまたがるものとして《天地理譚》(1816,稿)がある。
執筆者:海野 一隆
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(三輪英夫)
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1747~1818.10.21
江戸中・後期の洋風画家。江戸生れ。本姓安藤氏。明和・安永年間を中心に狩野派・南蘋(なんぴん)派・浮世絵派などの多様な画法を習得した後,写実的な表現への指向を明確にする。1783年(天明3)日本最初の腐食銅版画(エッチング)の制作に成功。寛政年間以降,油彩画の制作が盛んになり,西洋画の模写をへて,油彩画の技法による日本風景画を完成した。天文学・地理学など西洋の学問への強い関心を示したが,晩年の言動には老荘思想の影響が色濃く,絵画制作にも東洋への回帰が認められる。代表作「三囲景図(みめぐりけいず)」「相州鎌倉七里浜図」,著書「西洋画談」「和蘭天説」「西遊(さいゆう)日記」「春波楼(しゅんぱろう)筆記」。
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[日本における銅版画]
日本には16世紀末にイエズス会によって彫刻銅版画(エングレービング)が導入されたが,17世紀初めにキリシタン弾圧によって断絶した。18世紀後半に司馬江漢がエッチングを再興し,亜欧堂田善,安田雷洲ら注目すべき作家を生んだ。開国後イタリアから招聘したキヨソーネが再びエングレービングを教え,腐食法とともに実用的な挿図,地図などに用いられた。…
…したがって,彼らにとって西洋原画の模写はおもに画法習得のためであり,第1期の洋風画家のように目的そのものではなかった。西洋画研究の材料となった図書や版画は長崎を通じて輸入されたが,第2期洋風画の主流はむしろ新興文化の中心である江戸にあり,この地には18世紀後半以後,秋田蘭画の小田野直武,佐竹曙山(義敦),また司馬江漢,亜欧堂田善,そして安田雷洲らの洋風画家があいついで登場した。秋田蘭画は和洋折衷の作風を示し,油絵や銅版画を作らなかったが,司馬江漢以後の人々はこれらの新技術を駆使して,多くの洋風画を制作した。…
※「司馬江漢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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