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高山彦九郎 たかやま ひこくろう

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美術人名辞典の解説

高山彦九郎

江戸中期の勤王家。上野生。名は正之、字は仲縄、彦九郎は通称。13才頃『太平記』を読み、発憤して志をたてる。のち上京し河野恕斎に学ぶ。志士と交わり、中山愛親の知遇も得た。諸国を歴遊し勤王の大義を唱える。寛政三奇士の一人。寛政5年(1793)歿、47才。贈正四位。

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デジタル大辞泉の解説

たかやま‐ひこくろう〔‐ひこクラウ〕【高山彦九郎】

[1747~1793]江戸中期の勤王家。上野(こうずけ)の人。名は正之。諸国を行脚して勤王思想を提唱。時勢に憤激して九州久留米で自刃。林子平蒲生君平(がもうくんぺい)とともに、寛政の三奇人の一人。

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百科事典マイペディアの解説

高山彦九郎【たかやまひこくろう】

江戸中期の尊王論者,上野(こうずけ)国郷士。名は正之(まさゆき)。1764年上洛(じょうらく)して公卿に交わって勤王の気を高め,北辺危急を憂えて蝦夷(えぞ)松前に渡航。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高山彦九郎 たかやま-ひこくろう

1747-1793 江戸時代中期-後期の尊王運動家。
延享4年生まれ。京都で河野恕斎(じょさい)にまなぶ。諸国をまわり,藤田幽谷(ゆうこく),中山愛親(なるちか)らとまじわったが,九州遊説中,幕府の追及をうけ寛政5年6月27日自刃した。47歳。林子平,蒲生(がもう)君平とともに寛政の三奇人といわれる。上野(こうずけ)(群馬県)出身。名は正之。字(あざな)は仲縄。
【格言など】朽果てて身は土となり墓なくもこころは国を守らんものを

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世界大百科事典 第2版の解説

たかやまひこくろう【高山彦九郎】

1747‐93(延享4‐寛政5)
江戸中期の勤王家。名は正之,彦九郎は通称。上野国新田郡細谷村に生まれ,18歳のとき京に出て公卿の間出入りし,諸国を巡って勤王論を唱えたが,幕府に行動を監視されるところとなり,家族にまで圧迫が加えられ,九州久留米で悲憤のあまり自刃した。足利尊氏の墓をむちうつなど奇行が多く,蒲生君平林子平とともに寛政の三奇人とよばれた。【大石 学】

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大辞林 第三版の解説

たかやまひこくろう【高山彦九郎】

1747~1793) 江戸中期の勤皇家。上野こうずけ新田郡の郷士。名は正之。諸国を歩いて勤皇を唱えた。幕府に行動を監視され、九州久留米で悲憤して自刃。奇行が多く、寛政三奇人の一人。京都三条大橋の、皇居を跪拝する像は有名。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高山彦九郎
たかやまひこくろう

[生]延享4(1747).上野
[没]寛政5(1793).6.27. 久留米
江戸時代中期の勤王家。上野国新田郡の郷士高山良左衛門の子。先祖は新田氏。少年の頃から勤王の志をいだき,京都に上って公家と交遊し,次いで諸藩を巡遊して勤王主義を説き,ロシアの南下を聞き伝えて松前におもむいたが,幕府に圧迫されて久留米に逃れ,自刃。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高山彦九郎
たかやまひこくろう
(1747―1793)

江戸後期の勤王家。蒲生君平(がもうくんぺい)、林子平(しへい)とともに寛政(かんせい)の三奇人といわれる。上野(こうずけ)国新田(にった)郡細谷(ほそや)村(群馬県太田市)の旧家郷士貞正(さだまさ)の次男に生まれる。名は正之(まさゆき)、字(あざな)は仲縄、彦九郎は通称。13歳のころ『太平記』を読んで建武(けんむ)中興の忠臣の志に感動し、生地が新田氏ゆかりの地であることもあって勤王の志をたてたといわれる。18歳のとき京都に出て学問を修め、中山愛親(なるちか)らの公卿(くぎょう)や多くの有志の知遇を得た。さらに忠孝仁義の人を訪ねて諸国を遊歴、1789年(寛政1)江戸に行き、翌年には水戸から奥州を経て松前にまで足を伸ばしている。のち、さらに九州を遍歴したが、寛政5年6月27日、筑後(ちくご)(福岡県)久留米(くるめ)の森嘉膳の邸で突然切腹して死んだ。自分の行動を幕府に監視されるなど、時勢に憤激してのことと思われるが、自刃の明確な理由はつまびらかでない。京都の三条大橋にぬかずいて皇居を拝んだり、足利尊氏(あしかがたかうじ)の墓をむち打つなど、数多くの奇行が伝えられている。[竹内 誠]
『千々和実・萩原進編『高山彦九郎日記』全五巻(1978・西北出版) ▽野間光辰著『高山彦九郎――京都日記』(『日本の旅人7』1974・淡交社)』

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