四十瀬村
しじゆうせむら
沖村の西、東高梁川の本流水尾中に沖積したデルタ上の村で、かつてその流れが幾つも河瀬をつくっていたのが村名の由来であろう。天正四年(一五七六)一月二八日、猿懸領内「四拾瀬」三〇貫文が井上又右衛門尉に宛行われている(「毛利輝元宛行状写」萩藩閥閲録)。元和元年(一六一五)頃と推定される二月九日の小堀政一書状(佐治文書)によると、当地に堤防を築いたために対岸中島村の堤が傷み、倉敷への高瀬舟運航に支障を来していた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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