朝日日本歴史人物事典 「堀平太左衛門」の解説
堀平太左衛門
生年:享保1(1716)
江戸中期の熊本藩大奉行,家老。用人勝行の子。名は勝名。巣雲と号した。享保18(1733)年親跡500石相続。若年より本藩の疲弊ぶりを嘆き財政再建について決意するところがあったという。藩主細川重賢の藩政改革に際して,同僚竹原勘十郎の推挙によって,宝暦2(1752)年大奉行に登用され,新設の機密機関を改革の中核とした。6年奉行所に権限を集中して奉行分職制を確立し,中老職を設け,大奉行兼帯で腕をふるった。改革は財政策として宝暦地引合(検地),知行世減の法,文教策として藩校時習館,医学校再春館の設立,法制面では「刑法草書」を発布するなど諸面におよぶものであった。平太左衛門は藩主の全幅の信頼を受けて改革にのぞんだが,第三者の批判には細心の注意を払い,反対意見は積極的に論破し,中傷する者は直ちに配置替えを行って排除したが,役人の少々の不都合には目をつぶって大義をなさしめる方針を取ったという。改革の成果は幕府にも聞こえ,老中松平定信にもお目見えし「肥後に鳳凰あり」と藩主重賢の名を高からしめた。反面,家禄500石の平太左衛門が家老(3500石)に登用されたことは名族世襲家老らの反感を買い,反対派も少なくなかった。
(松本寿三郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報