ナポレオン[1世]
Napoléon Ⅰ
生没年:1769-1821
フランス第一帝政の皇帝。在位1804-14。本名はナポレオン・ボナパルトN.Bonaparte。コルシカのアジャクシオの小貴族シャルル・ボナパルトとレティシアの次男として1769年8月15日に生まれた。フランス本土のブリエンヌ幼年学校,パリ兵学校で学び,85年砲兵少尉として地方都市に赴任したが,革命までは読書にすごし,たびたび帰郷していた。革命派に属しコルシカでも独立派のパーオリと対立し,一家はフランスに移住した。93年トゥーロン港がイギリス・フランス艦隊に閉鎖されたとき,砲撃してこれを駆逐し,イタリア遠征軍旅団長となったが,ロベスピエール派と目され,一時休職となった。しかし95年パリにバンデミエールの反乱が起こると登用され,鎮定に成功し,翌年にはイタリア遠征軍司令官となり,出発の直前ジョゼフィーヌと結婚した。イタリア戦争は,軍事的天才と占領地管理の政治的才能を自覚させ,彼の人間形成に大きな役割を果たした。凱旋するとまもなく対イギリス戦略としてエジプト遠征が計画され,98年5月司令官として出発し,戦果をあげシリアまで進軍したものの,フランス艦隊はイギリス艦隊に撃破され,ヨーロッパでは第2対仏大同盟が形成されたので,99年10月には本隊を残して帰国した。時の総裁政府は左右勢力にはさまれ政治の安定を得られなかったために,シエイエスら政治家はナポレオンの軍事力をもってブリュメール18日(11月9日)のクーデタを議会にかけ,総裁政府を倒した。これがナポレオンの生涯での転機である。同年末に制定された新憲法はすでに彼の意志で決定され,執政政府の第一執政として独裁権力を握り,皇帝への道を歩んだ。
1800年オーストリアに対して第2イタリア遠征を行い,リュネビル条約でライン左岸を確保し,以後戦争は侵略的となった。ナポレオンはフランス銀行設立,司法・行政改革,教育制度確立を行い,宗教協約,イギリスとのアミアン条約を結び,ナポレオン法典を発布した。04年元老院決議によって皇帝に推戴され,12月2日戴冠式を行った。第一帝政はここに始まる。まず第3対仏大同盟に対抗するためイギリス本土上陸作戦を立てたが実現せず,05年〈大陸軍〉をオーストリアに向け,アウステルリッツ会戦(三帝会戦)で連合軍を破り,06年にはドイツ諸侯にライン連邦を編成させたうえ,プロイセン,ロシアに出兵し,ベルリンに入城して大陸封鎖の勅令を発した。翌年ロシア軍を圧迫して,ティルジット条約を結んだ。ナポレオンはヨーロッパの支配者となり,みずからイタリア王を兼ね,親族,部将を衛星国の元首にすえた。10年ジョゼフィーヌを離婚し,オーストリア皇女マリー・ルイズと結婚,第一帝政は全盛期を迎えた。しかしまずポルトガルが大陸封鎖を破ったため出兵してイベリア半島を占領すると,スペインは独立戦争を起こし,12年ロシア遠征に失敗すると,ドイツ解放戦争が開始され,同盟軍はフランスに侵入した。14年パリも占領され,ナポレオンはフォンテンブロー条約により退位し,エルバ島に流された。
ブルボン朝ルイ18世の支配に対する国民の不満を知り,15年エルバ島を脱出してフランスに上陸,百日天下の支配を自由帝政として始めた。しかし彼は往年の精神的緊張力を失っており,同年6月ワーテルローの戦に敗れ,イギリスに投降してセント・ヘレナ島に流され,21年5月5日この島で死んだ。(図1・図2参照)
→ナポレオン戦争 →ナポレオン伝説
執筆者:井上 幸治
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ナポレオン1世
ナポレオンいっせい
Napoléon I; Napoléon Bonaparte
[生]1769.8.15. コルシカ島,アジャクシオ
[没]1821.5.5. セントヘレナ島
フランス第一帝政の皇帝(在位 1804~14,1815)。生粋のコルシカ人貴族の子。フランスで教育を受け,1785年パリ士官学校を卒業。フランス革命初期にはジャコバン・クラブ(→ジャコバン派)に入会。コルシカ独立運動に参加したが指導者パオリと衝突し,1793年一家をあげてフランスに亡命,同 1793年ニースの連隊に復帰した。この頃からナポレオン・ボナパルトと呼ばれるようになった。同 1793年8月国民公会軍の砲兵隊の指揮官に任命され,12月反革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し,准将に昇進。1796年3月イタリア遠征軍司令官となる。同 1796年3月9日ジョゼフィーヌと結婚。カンポフォルミオ条約によってイタリアで 5年間続いた戦争は収拾され,ナポレオンの人気は頂点に達した。1798年7月エジプトに遠征,1799年11月エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスと結んでブリュメール十八日のクーデターを断行し執政政府を樹立,軍事独裁を始めた。1804年5月に帝国成立が宣言されると皇帝に即位。以後産業振興,学制改革,行政,司法の再編成などを行なった。1807~10年頃相次ぐ対外戦争の勝利によってその威信と権力は頂点に達したが,1812年のロシア遠征の失敗によって諸国民戦争が勃発。1813年ライプチヒの戦いの敗北で没落は決定的となり,1814年5月エルバ島に流された。島を脱出し 1815年3月上陸,再びヨーロッパ連合軍と対抗,ベルギーに進撃し,6月リニーでプロシア軍を撃破したが,ワーテルローでイギリス軍と戦って敗れ(→ワーテルローの会戦,百日天下),セントヘレナ島に流されて同地で没した。
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ナポレオン1世(ナポレオンいっせい)
Napoléon Ⅰ (Napoléon Bonaparte)
1769~1821(在位1804~14,15)
フランスの皇帝。コルシカのボナパルト家出身。フランスで軍事教育を受けて砲兵将校となり,1793年にはトゥーロン攻囲戦に戦功をあげた。総裁政府下に,95年,パリ王党派の反乱を鎮定し,96年イタリア軍司令官となって軍事的天才を発揮し,立身の端をつかんだ。98~99年,エジプトに遠征したが,対仏大同盟が結成され,総裁政府の動揺を知って帰国し,99年11月,ブリュメール18日のクーデタをもって統領政府を樹立,みずから第一統領(在任1799~1804)となった。アミアンの和約締結,ナポレオン法典編纂,教育制度設立,コンコルダート締結,産業育成などの事業を行い,1804年には皇帝となり,第一帝政を開いた。それ以後戦争を続けて軍事組織の基礎を固め,ヨーロッパを征服し,06年には対イギリス作戦の一環としてベルリン勅令によって大陸封鎖を命令した。08年にはスペインの離反にあい,翌年にはジョゼフィーヌと離婚し,10年にマリ・ルイーズと結婚した。ここに全盛期を迎えたが,12年ロシア遠征に失敗し,ドイツ解放戦争にあい,14年退位しエルバ島に流された。15年3月帰国し百日天下を実現したが,ワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に流され,21年そこで死んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ナポレオン1世
生年月日:1769年8月13日
フランス第一帝政の皇帝(在位1804〜14)
1821年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のナポレオン1世の言及
【アンバリッド】より
…外部における2段のオーダー,タンブール(円胴)の位階的な構成はフランス古典主義建築のひとつの模範とされた。1840年この教会地下にナポレオンが葬られた。かつての廃兵院は現在,軍事博物館となっている。…
【エルバ[島]】より
…エトルリア人,次いでローマ人が征服したこの島は,中世にはピサ,ジェノバに相次いで領有され,さらにスペイン,トスカナ大公国,ナポリ王国等,周辺の強国が支配を争った。1802年にフランス領となり,14年フランス皇帝を退位したナポレオンはこの島を領地として与えられたが,翌年脱出してフランスに戻り,百日天下を実現した。15年ウィーン体制でトスカナ大公国の領有に帰し,60年イタリア王国に統合された。…
【言論統制】より
…しかし市民革命に対する反革命が行われ,あるいは貴族・地主ら保守階級が優勢だった国ではなお強い言論統制が続いた。フランスでは大革命の反逆児ナポレオンの言論統制はことに激しく,1800年にまず政論紙を13に制限し,新しい新聞の発行を禁止し,皇帝となった04年には共和派の新聞《[ジュルナル・デ・デバ]》に特別事前検閲を科し,題号を《ジュルナル・ド・ランピール(帝国新聞)》と変更させ,11年にはこれを国有にし,同時に地方新聞に1県1紙の新聞統合を行った。フランスの言論の自由はパリ・コミューンを経て第三共和政成立後,81年〈新聞の自由に関する法律〉が公布されてはじめて実現した。…
【コルビザール・デ・マレ】より
…シャンパーニュのドリクールに生まれる。パリのオテル・デューで医学を学び,シャリテ病院医員を経てコレージュ・ド・フランスの内科学教授となり,1807年ナポレオン1世の侍医になる。[J.L.アウエンブルッガー]が発明した打診法(1761)を再発見し,それを仏訳(1808)するとともに,補足改良して胸部疾患の診断に用いた。…
【サン・マルコ広場】より
…広場の歴史は最初期のパラッツォ・ドゥカーレと聖堂が創建された9世紀にさかのぼるが,現状に近い形をとったのは運河を埋め立てて拡張,整備が行われた12世紀中ごろである。12~15世紀にかけてパラッツォ・ドゥカーレの改修,再建を含む広場の整備が進み,ルネサンス時代にはコドゥッチMauro Coducciが旧行政館横に時計塔を,ベネチアの公共建築行政主任を務めたJ.サンソビーノがパラッツォ・ドゥカーレに向かいあうサン・マルコ図書館と鐘楼下の柱廊(ロジェッタ)を,スカモッツィが新行政館を建設し,19世紀初頭にナポレオンが改修したピアッツァ西辺(〈ナポレオンの翼〉)を除いてほぼ現状の姿が整った。広場の結節点に立つ鐘楼(高さ99m。…
【ジョゼフィーヌ】より
…ナポレオン1世の最初の妻。本名Marie‐Josèphe Rose Tascher de La Pagerie。…
【スイス】より
…
[フランス革命の影響と連邦国家体制への移行]
フランス革命の平等理念はスイスにも影響を与え,スイス革命がおきた。この革命運動をナポレオンは軍事的に援助し,1798年に〈ヘルベティア共和国〉の樹立を促した。フランスの完全な中央集権国家体制をまねたこの体制は,スイスの伝統的な地域自立主義に合わず,直ちに内乱状況に陥り,崩壊した。…
【スペイン独立戦争】より
…ナポレオンの侵略に反対するスペインの戦争(1808‐14)。フランス軍が1808年3月マドリードに接近し,無能なスペイン王[カルロス4世]と王妃マリア・ルイサおよび大臣の[M.ゴドイ]の政治に対する国内の不満が,3月17日のアランフエス暴動に引き続いて5月2日のマドリード民衆の蜂起を生んだ。…
【スミレ】より
… 春の花のほかに,スミレにはつつましいかれんな少女のイメージが強い。ナポレオン1世の最初の夫人ジョゼフィーヌもスミレを愛した。フランス革命で貴族の夫とともに獄につながれた彼女に釈放の知らせがきたのは,獄卒の娘がとどけたスミレの花束の後だった。…
【セント・ヘレナ[島]】より
…また帆船時代には寄航地として栄えたが,スエズ運河開通後は重要性を失った。1815年にナポレオンが流刑され,6年後にこの地で没したことは有名。34年に王室の直轄植民地となり,1922年にアセンション島,38年にトリスタン・ダ・クーニャ島,ゴフ島などを付属領域として加えた。…
【第一帝政】より
…1804‐14年にフランスのナポレオン1世が支配した帝国。国際的に承認されなかったため百日天下(1815年3~6月)の時期はここに加えない習慣である。…
【大陸封鎖】より
…ナポレオン1世が,敵国イギリスの国力に打撃を与えるために,みずからの支配するヨーロッパ大陸諸国とイギリス(およびその植民地)との間の交通や通商を全面的に禁止し,イギリスに対してヨーロッパ大陸の市場を閉鎖しようとした政策をいう。この大陸封鎖は,1806年のベルリン勅令と翌年のミラノ勅令によって命令されたものであるが,それに関連する諸政策を含めた総称として,大陸制度continental systemと呼ばれる場合もある。…
【ダビッド】より
…フランス[新古典主義]の代表的画家。フランス革命初期の数年間は熱烈な革命派として,ナポレオン台頭後はその主席画家として,革命およびナポレオン時代の諸事件の視覚的な記録を後世に残した。パリに生まれ,1766年,絵画における新古典主義様式の創始者の一人ビアンJ.Vienの弟子となる。…
【ナポリ王国】より
…穀物独占の廃止,関税の引下げ,ギルド規制の制限など自由主義的な経済政策が試みられたが,結局大貴族の特権を奪うことはできず,経済を立て直すことは不可能だった。フランス革命に際して,ナポリのブルボン家は革命政府に反対する立場をとりイギリスに呼応して参戦したが,ナポレオンのイタリア侵入によってシチリアへ亡命した(1799)。こうして成立したナポリ共和国(パルテノペーア共和国)はわずか6ヵ月しか続かず,ブルボン王家の復帰をみた。…
【ナポレオン戦争】より
…フランスの総裁政府(1795‐99)より第一帝政(1804‐14)の時期にかけて,ナポレオン1世が指揮した戦争。総裁政府のもとにあって指揮した第1イタリア遠征,エジプト遠征では単に総司令官であったが,第一執政(1799‐1804)就任後はナポレオンが政治と戦争の意志決定者であった。…
【贋金(偽金)】より
…1789年フランスで革命政府が発行した紙幣[アッシニャ]は,反対派が多量の贋札をばらまいたこともあって,わずか7年後には廃棄されている。また1812年にはナポレオン1世がパリに設置した印刷機を使って贋札を作り,ロシア遠征用の軍需品を購入したという。アメリカでも開国以来贋金が横行し,贋造防止のために開発された細紋彫刻機械などを活用したにもかかわらず,1930年代には100万ドルに近い贋札が市場に現れる事態となった。…
【フランス革命】より
…18世紀末にフランスで生じた革命。1787年に王権に対する貴族の反抗で口火が切られ,89年から全社会層を巻き込む本格的な革命になり,絶対王政を倒して,立憲王政から共和政へとしだいに急進化したが,94年のテルミドールの反動ののち退潮に向かい,99年にナポレオンの政権掌握をもって終わる。単に政治上の変革であるにとどまらず,前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命であるので,世界史上,ブルジョア革命([市民革命])の代表的なものとされる。…
【ブリュメール18日】より
…1799年11月9日,フランスでナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒して権力を掌握したクーデタをいう。その日が,当時行われていた共和暦では共和第8年ブリュメール18日に当たるので,この名がある。…
【ボナパルト家】より
…フランス皇帝ナポレオンの出た家系。この家系は,16世紀にイタリアのフィレンツェからコルシカ島のアジャクシオの町に移住し,代々役人や聖職者を出していた。…
【モスクワ遠征】より
…ナポレオンによる1812年のロシアへの遠征。ロシアでは一般に祖国戦争Otechestvennaya voinaという。…
【ラス・カーズ】より
…南フランスのルベル市の小貴族の出身で,海軍将校となったが,1791年フランス革命を避けて亡命,92年にはコンデ公のもとでキブロン上陸作戦に参加し,イギリスに逃れた。1802年帰国して参事院請願委員をへてナポレオン皇帝侍従となり,男爵となった。15年ナポレオンが没落すると,その子を伴いセント・ヘレナ島に随行し,秘書としてナポレオンの口述を筆記した。…
【ローマ理念】より
… 一方,中世ラテン世界においては,普遍的秩序の象徴としてのローマ理念を担ったのはむしろローマ教皇であったが,フランクへのローマ帝国の委譲とみなされたカール大帝(シャルルマーニュ)の帝国や神聖ローマ帝国の建国もまた,実態はともあれ普遍的支配への主張であった。近代においてはローマ教皇から帝冠を受け,ルイ16世ではなくカール大帝の後継者を自認したナポレオン1世に,普遍的ローマ理念の影響が認められよう。他方,中世後期のイタリアでは,ローマ市住民を中心に民族主義的ローマ理念が生まれ,14世紀のコラ・ディ・リエンツォにおいて一つの頂点に達する。…
【若きウェルターの悩み】より
…それはセルバンテスの《ドン・キホーテ》,シェークスピアの《ハムレット》とならぶゲーテの偉大な文学的創造であり,生涯を通じて彼は〈ウェルターの詩人〉として有名であった。1808年10月2日,ゲーテがナポレオンにはじめて謁見したときも,《若きウェルターの悩み》が話題になり,この小説を7回読んだというナポレオンは,初版のある個所でウェルターの自殺が愛以外のモティーフで動機づけられているのは不自然だと指摘したといわれる。しかし《若きウェルターの悩み》には恋愛心理のほかに宗教的自然観および社会批判の要素があり,これら二つの要素は恋愛心理の要素に劣らず重要である。…
※「ナポレオン1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」