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国民公会 こくみんこうかいConvention nationale

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

国民公会
こくみんこうかい
Convention nationale

立法議会に続くフランスの憲法制定議会 (1792.9.21.~95.10.26.) 。普通次の3時期に区分される。 (1) ジロンド派公会 (92.9.21.~93.6.2.)  右翼にジロンド派,左翼に M.ロベスピエール,G.ダントン,J.マラー山岳派,中間に平原派が位置する。第一共和政の宣言直後からジロンド派と山岳派の対立が激化し,特に国王ルイ 16世の裁判が両者の戦いを妥協不可能にした。国王の処刑 (93.1.21.) により,ヨーロッパのほとんどの国がフランスと戦争状態に入り,国内では経済危機が生れてパリでアンラジェ (過激派) の暴動が起り,バンデーでは王党派の大規模な反革命内乱が勃発し,ジロンド派の無能ぶりを前に,多くの共和主義者が山岳派に移った。 1793年5月末日から6月2日にかけてジロンド派は公会から追放された。 (2) 山岳派公会 (93.6.2.~94.7.27.)  革命の危機のなかで山岳派は民衆の支持をバックにブルジョア民主主義革命の貫徹を目指した。 93年6月に採択された共和暦第一年憲法 (山岳派憲法 ) は民主主義の本質的な特徴を規定し,7月 17日の法令は領主制の無償廃棄を規定した。他方,アッシニア紙幣の下落は食糧危機を深化させたため,7月に買占め禁止法,9月には一般生活必需品の最高価格法を布告。しかし,全国境で共和国軍隊が退却し,バンデーの反乱が新たな進展を示し,マラーが暗殺されると (7月) ,国内外の危機克服のために公安委員会の独裁と革命裁判所が強化されテルミドール九日 (94.7.27.) のロベスピエールの失脚まで恐怖政治が断行された。 (3) テルミドール派公会 (94.7.28.~95.10.26.)  山岳派支配の崩壊とともに,ブルジョアジーの政治的支配が再建される。政治的反動に精神的反動が伴い,快楽に対する欲求が強まった。 94年末に経済統制と最高価格法が廃止され,アッシニア紙幣の暴落,物価の高騰,商業投機がもたらされた。 95年春「パンと 93年の憲法を」というスローガンを掲げてパリの民衆が蜂起したが失敗。この年には共和暦第三年憲法が制定され,5人の総裁から成る総裁政府に行政権がゆだねられることになり,国民公会は 95年 10月 26日に解散した。

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百科事典マイペディアの解説

国民公会【こくみんこうかい】

フランス革命期の1792年9月から1795年10月の間,政治の中心となった議会。初めて男子普通選挙によって召集された。ジロンド派山岳派の抗争期(1793年6月まで),山岳派独裁期(1794年7月まで),テルミドール反動(テルミドール9日)(1795年10月まで)の3期に分かれる。
→関連項目立法議会ルイ[16世]ルイ[17世]

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世界大百科事典 第2版の解説

こくみんこうかい【国民公会 Convention nationale】

フランス革命中に,憲法制定国民議会,立法議会のあと,初めて男子普通選挙(ただし2段階選挙)により召集されたフランスの議会。1792年9月21日の第1回会議から95年10月26日の解散まで,3時期に分けられる。第1期は,約750名の議員のうち過半数を占める中間派(〈平原派la Plaine〉とか〈沼派le Marais〉と呼ばれた)をはさんで右派のジロンド派と左派の〈山岳派〉が対立した時期である。はじめジロンド派は山岳派に対して優勢であったが,対外戦争の敗北,国内の反革命の激化と社会経済危機などの内外の革命の危機に有効に対処しえず,しだいに中間派の支持を失い,また立憲君主派や王党派との妥協をはかったために,93年6月2日,パリ民衆の包囲のなかで議会から追放された。

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大辞林 第三版の解説

こくみんこうかい【国民公会】

フランス革命期、立法議会にかわって開かれた議会。1792年に普通選挙で成立。共和制を宣言し、ルイ一六世を処刑。ジャコバン派が指導権を握りジロンド派を追放したが、総裁政府成立により解散。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

国民公会
こくみんこうかい
Convention nationaleフランス語

フランス革命の第3回めの議会。革命の最終段階を彩った。1792年8月10日パリ市民の蜂起(ほうき)により、王権の停止後に、立法議会にかわって成立した。92年9月21日から95年10月26日まで存続。議員749名は最初の人民投票で選ばれ、即日王制を廃止して、共和制の実施を宣言。革命暦の採用をも決議した。議場では右翼にジロンド派、左翼に山岳派(ジャコバン党)が対峙(たいじ)したが、両派ともせいぜい120名前後の頭数をそろえるのみ。圧倒的多数が中間の平原派(もしくは沼沢派)に所属した。ジロンド派は平原派の票により、内閣の首班にロランを据え、与党の立場につくが、国王の裁判問題で足並みを乱し、93年1月のルイ16世処刑の投票で、山岳派に勝ちを譲った。
 一敗地にまみれたジロンド派は挽回(ばんかい)を策し、山岳派に攻撃を加えたが、自党と親密な将軍デュムーリエの変節により人気を失ったうえ、自由主義政策に固執して、戦時下の生活苦にあえぐ小市民、無産者層から見放され、1793年6月2日の暴動を機に、28名の領袖(りょうしゅう)を除名され、完全に骨抜きにされた。以来、山岳派の独走体制が樹立されるが、山岳派も、地方に潜入して反抗を継続するジロンド派議員や王党派の陰謀に苦しみ、さらに革命戦争の遂行上、「総動員法」や「一般最高価格制」や「反革命容疑者取締法」などを施行し、総力戦の態勢を整えるにつれ、恐怖政治へと突入する。93年10月、国民公会の公安委員会は「革命政府の成立」を宣言し、ロベスピエールら12名の独裁機構を実現し、ジャコバン党内のエベール派、ダントン派を粛清して、94年4月には文字どおり行政、統帥、外交の大権を掌握した。が、7月末に議会の反撃を浴びて、ロベスピエールらが失脚し、革命のドラマが終幕する。と同時に、一部山岳派と平原派との提携が成り立ち、革命政府の構想は打ち崩されて、ブルジョア共和主義派が国民公会を指導した。[金澤 誠]

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世界大百科事典内の国民公会の言及

【フランス革命】より

…単に王政が廃止されただけではなく,ブルジョアジーと自由主義的貴族との同盟によって革命を妥協的な形で終結させようとする方式そのものが破産し,内外の強力な反革命勢力を前にして,ブルジョアジーは,民衆や農民の力を借りざるをえず,それらとの同盟によって革命を徹底的に推し進めるほかはなくなったのである。同年9月,さきに91年の憲法によって成立していた議会(立法議会)は解散され,新たに普通選挙によって国民公会が召集され,9月22日をもって共和政が樹立された(第一共和政)。国民公会に代表されていたのは依然としてブルジョアジーであったが,その内部には,民衆や農民との同盟を拒否してブルジョアジーだけの利害を守ろうとする右翼のジロンド派と,革命遂行のためには民衆や農民との同盟が不可避であることを認める左翼の山岳派とがあり,後者は,パリに本部を置き全国に下部組織をもつジャコバン・クラブと密接につながっていた。…

※「国民公会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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